2017年6月5日月曜日

「歴史のまち・浦賀散歩」ー西浦賀コース

前回の「歴史のまち・浦賀散歩」ー東浦賀コースに続き、今回は「歴史のまち・浦賀散歩」-西浦賀コースのぶらり散歩です。
歴史のまち西浦賀では、現在「西叶神社の平成大修復」や「浦賀奉行所復元計画」の二大事業が進行中です。成功を祈念しながらの史跡散歩となりました。

西浦賀コース
出発(京急浦賀駅)→1大衆帰本塚→2太子寺→3郷土資料館→4西叶神社→5東福寺→6常福寺→7愛宕山公園→8陸軍桟橋→9船番所跡→10為朝神社→11大六天榊神社→12浦賀奉行所跡→13寿光院→14燈明堂跡→15浦賀の蔵→16浦賀の廻船問屋(萬屋清左衛門家)→終点(京急浦賀駅)
歩数:17,500歩
行程:10.5㎞
時間:6時間

西浦賀コース案内図
横須賀市ホームページより転載

出発(浦賀駅)
浦賀駅前商店街通りの浦賀歴史絵図
浦賀ドック工場壁の浦賀歴史絵図

浦賀来訪歓迎ボード

 ペリーとサスケハナ号

 中島三郎助と鳳凰丸

 勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸

 榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック

 ヴェルニーと観音崎灯台

 虎踊り

 干鰯問屋

浦賀港とスペイン商館

1 大衆帰本塚
無縁仏の供養碑、元治元年(1864年)に建てられた。

2 太子寺
本堂の太子堂には、背に元徳3年(1331年)と刻まれた聖徳太子の幼年の姿を現した木像の孝養像が祀られている。


3 郷土資料館
展示室には、鏝絵、幕末の西浦賀の街並み・浦賀奉行所・船番所の模型、中島三郎助関係の資料、鳳凰丸・咸臨丸・ペリー艦隊旗艦サスケハナの船舶模型、廻船問屋萬清の所蔵品等が展示されている。
郷土資料館

鏝絵「雲海の富士」(辰巳忠志作)

鏝絵「親子龍」(辰巳忠志作)

展示室入口

幕末の西浦賀のまちなみ

浦賀沖「黒船」現る
横濱開港新聞創刊号 嘉永6年(1853)6月9日

ペリー艦隊旗艦「サスケハナ号」

国産初の西洋式大型帆船「鳳凰丸」
建造は、中島三郎助を中心に香山栄左衛門ら浦賀奉行所の与力、同心が担当、1854年に竣工した。

1860年、日本初の太平洋横断に成功した「咸臨丸」

浦賀奉行所模型

浦賀船番所模型

廻船問屋「萬清」所蔵品

4 西叶神社
西浦賀の鎮守。京都神護寺の文覚上人が源氏再興のため、養和元年(1181年)に石清水八幡宮を当地に勧請し創建、平家が滅びて願いが叶い、頼朝から文治2年(1186年)、「叶大明神」の称号が与えられたと伝えられている。
西叶神社

西叶神社の狛犬は、どちらも口を開いている。一方、対岸の東叶神社の狛犬は、どちらも口を閉じている。西叶神社と東叶神社の東西で、1対の阿吽像の狛犬となっている。

象・龍の彫刻(後藤利兵衛作)

神殿の棟柱を担ぐ力士像(後藤利兵衛作)

絵馬(浦賀奉行所与力、香山栄左衛門奉納)

香山栄左衛門碑
ペリー艦隊来航時、ペリー艦隊との交渉にあたった。

西叶神社、平成の大修復事業開始

5 東福寺
江戸幕府から御朱印地二石をもらっていた。浦賀奉行が就任すると必ず仏参した。本堂には、江戸時代中期を代表する画家・酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬がある。本堂正面軒下には、鏝絵の作品群が見られる。
東福寺

「亀」の絵馬

客殿から眺望した浦賀港

東福寺本堂正面軒下の鏝絵群(岩田辰之助作、昭和7年)

鏝絵「牡丹に唐獅子」

鏝絵「迦陵頻伽」

鏝絵「唐獅子」

l鏝絵「鶴」

鏝絵「浪に亀」

鏝絵「遊女普賢」

鏝絵「龍」

鏝絵「牡丹に唐獅子」

6 常福寺
文明年間(1469~1486年)に創建された。1820年、浦賀に奉行所が移されてから、浦賀における本陣(御用寺院)の役割をしてきた。そのため、奉行所に離着任する奉行は、一度は常福寺に立寄っていた。庫裏の庭園は、愛宕山を背景にした築山泉水庭で、心をなごませてくれる。歴代の奉行は、ここで疲れを癒していたのだろうか?
常福寺

常福寺の庭園

福寺の鏝絵「虎」(石川善吉作)

常福寺の鏝絵「龍」(石川梅尾作)

鏝絵(こてえ):左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝と漆喰で作り上げたレリーフ。江戸時代の中頃から数多く作られ、浦賀にも数点が残されている。干鰯(ほしか)問屋と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから、漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として、全国的に知られる漆喰細工の名人であった。浦賀には、善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っている。また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟も有名で、その作品も残っている。(横須賀市ホームページより参照)

7 愛宕山公園
明治24年(1891年)に開園の市内で一番古い公園。中島三郎助招魂碑と咸臨丸出航の碑がある。
愛宕山公園登山口

咸臨丸出航の碑

中島三郎助招魂碑

8 陸軍桟橋
太平洋戦争終了後、南方から約56万人の人々が、ここに引き揚げてきた。
陸軍桟橋

9 船番所跡
西浦賀蛇畠の地に、浦賀奉行所の出先機関であった船番所が置かれていた。番所では、江戸へ出入りする船の「船改め」を行い、「入鉄砲と出女」を取り締まる海の関所として重要な役割を果たしていた。その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋100余が実務を担当していた。
船番所跡(蛇畠)

船番所跡説明板

10 為朝神社
浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、源為朝を祀ってある。創建は文政期(1820年代)。伝承されている「虎踊り」は、浦賀奉行所の開設時に伊豆下田から伝えられたもので、県の民俗文化財に指定されいる。毎年6月の為朝神社の祭礼に奉納されている。

11 大六天榊神社(榊神社大禄天神)
川間(西浦賀町5丁目)の鎮守。浦賀奉行所の裏手にある。社殿の右に「昇り龍」、左に「降り龍」がある。各上部の小壁には、鶴一羽がある。「昇り龍」は石川善吉、「降り龍」は息子吉蔵の作で、鶴は親子の合作と伝えられている。
大六天榊神社

鏝絵「昇り龍」(石川善吉作)

大六天榊神社の鏝絵「降り龍」(石川吉蔵作)

上部小窓の鏝絵「鶴」(石川親子、善吉と次男吉蔵の合作)

12 浦賀奉行所跡
享保5年(1720)、下田にあった奉行所が浦賀へ移され、西浦賀川間に浦賀奉行所が設立された。江戸に入る物資の「船改め」と、江戸を異国船から防備する最前線の重要な役割を果たしていた。当初、東浦賀への設置が計画されたが、干鰯問屋の利権が侵害されるという理由で、東浦賀の干鰯問屋が猛反対、その結果、西浦賀に設置された(役所は川間に、船番所は蛇畠に決定)。皮肉なことに、そのことが原因となり、経済の中心は東から西に移行していった。
オリンピックエアーの2020年に、浦賀奉行所は開設300年を迎える。2016年に「浦賀奉行所復元協議会」が発足、復元に向けて活発な運動が展開されている。

〇浦賀奉行所の組織
  浦賀奉行:1員制または2員制、約150年間に歴代52人が就任
       500~5,000石の旗本から任命
  支配組頭:旗本2人、奉行の補佐
  与力:当初は5騎、幕末には20騎
  同心:当初は50人、幕末は100人
  足軽:40人(安政3年)
  水主:大津、走水、鴨居、浦賀など11村から
  三方問屋:船改め業務の請負
       下田問屋63軒、東浦賀問屋20軒、西浦賀問屋22軒
       計105軒
〇浦賀奉行所の(役所)敷地
  享保5年創設時 約500坪
  安政2年拡張時 約2,000坪(現在の奉行所跡)
  (齋藤純、浦賀歴史研究会資料 参照)

浦賀奉行所跡

唯一現存する掘割・石橋

浦賀奉行所復元を呼びかけるポスター

大六天榊神社から見た浦賀奉行所跡

13 寿光院
常福寺の隠居所としての境外仏堂である。
寿光院

14 燈明堂跡
燈明堂は、浦賀港西岸の先端にあり、慶安元年(1648年)に幕府によって建てられた。当時は、夜間、他に光がなかったため、その灯は房総半島にまで届いたと言われている。観音崎灯台が造られるまで、灯台としての役割を果たしていた。
初期は幕府によって維持・管理されていたが、元禄5年(1692年)からは、東浦賀の干鰯問屋が、その役割を担うようになった。干鰯問屋は、経営が厳しくなっていく中でも、浦賀港と浦賀水道の航行安全のため、燈明堂の維持・管理に努めた。
下り坂(左):燈明堂跡、上り坂(右):千代ケ崎砲台跡

燈明堂跡

15 浦賀の蔵
浦賀は干鰯を始め、多くの品物を全国に売りさばく町として賑わった。今でも、西浦賀紺屋町には、当時の蔵がそのまま残っている。

16 浦賀の廻船問屋(萬屋清左衛門家)
湊町として発展した浦賀では、積荷の検査や集荷・運送・揚げ降ろしなどを行う廻船問屋が広く繁栄した。西浦賀紺屋町には、今でも250年続く旧廻船問屋、萬屋(宮井)清左衛門家、通称「萬清」の家宅がある。同家には、ペリー来航時、黒船で実際に使われていた「鍋」も保管されている。
廻船問屋「萬清」

「萬清」所有船

「萬清」所蔵品

「萬清」所蔵、黒船の「鍋」
2016年6月18日(土曜日)NHK放送「ブラタモリ」テレビ映像転載

終点(京急浦賀駅)
浦賀駅から電車で帰宅