2018年4月28日土曜日

ヴェルニー記念館

ヴェルニー記念館は、横須賀製鉄所を建設し、日本近代化の基礎を造り上げたフランス人技師フランソワ・レオン・ヴェルニーの功績と、横須賀製鉄所の意義を永く後世に伝えるため、平成14年(2002年)、横須賀市自然・人文博物館の付属施設として、JR横須賀駅から徒歩1分、横須賀港に面したヴェルニー公園の一角に建てられた。公園からは、対岸の米海軍横須賀基地(横須賀製鉄所跡)に停泊中の艦船が間近に観察でき、人気の観光スポットとなっている。

ヴェルニー胸像(ヴェルニー公園内、東逸見町1-1)
フランソワ・レオン・ヴェルニーは、フランス人の造船技師で、海軍増強を目指す江戸幕府の要請により、横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として、慶応元年(1865年)に来日した。明治維新後も、引き続きその建設と運営の任に当たり、観音崎灯台や走水の水道建設、レンガの製造の他、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し、明治9年(1876年)に帰国した。

明治初期の横須賀製鉄所
現在の横須賀製鉄所跡(米海軍横須賀基地)
米海軍横須賀基地「イージス艦」
米海軍横須賀基地「イージス艦」
ヴェルニー記念館(東逸見町1-1)
ヴェルニー記念館と戦艦「陸奥」主砲
ヴェルニー記念館内に展示の横須賀製鉄所(造船所)で
使用されていた2基のスチームハンマー(日本遺産認定)
スチームハンマー越しに観た米海軍横須賀基地「イージス艦」
横須賀製鉄所(造船所)作業の様子
ヴェルニー記念館内展示ポスター(横須賀市自然・人文博物館刊行)転載
横須賀製鉄所
日本近代化のルーツ 横須賀製鉄所
横須賀製鉄所の立役者
ー「小栗上野介」と「ヴェルニー」ー
横須賀製鉄所とナウマンゾウ発見
横須賀製鉄所のすごい人たち
ー造船と料理ー
横須賀製鉄所のすごい人たち
ー造船所で活躍した人びとー
横須賀製鉄所のすごい人たち
―日本初を成し遂げた2人 川島忠之助と若山鉉吉ー
富岡製糸場をつくった横須賀製鉄所

2018年4月20日金曜日

「新三笠桟橋」誕生

猿島航路の遊覧船発着所である「三笠桟橋」が老朽化したため、昨年9月から建て替え工事が行われていた。GW前に工事は終了、「新三笠桟橋」が誕生した。4月25日から使用が開始される。
猿島砲台跡は、平成28年(2016年)4月、日本遺産に認定された。その影響もあって、猿島の史跡巡りは、年々人気が高まり、昨年の来島者は18万人に達した。現在、市当局によって「夜の猿島の利活用」も検討中とのこと。近々、昼間には味わえない夜の猿島の景観が楽しめそうだ。

「新三笠桟橋」誕生の新聞報道
(タウンニュース横須賀板、2018年4月20日号)
「新三笠桟橋」誕生、右遠方は猿島
「新三笠桟橋」で、使用開始を待つ猿島航路遊覧船
「旧三笠桟橋」
工事中の「新三笠桟橋」

ポスター「ペリー遠征の石版画」

先日、横須賀市自然・人文博物館で、ポスター「ペリー遠征の石版画」を購入してきた。「ペリー提督日本遠征画集」に掲載されている久里浜上陸の図のポスターである。
横須賀市自然・人文博物館(深田台95)
ポスター「ペリー遠征の石版画」
ポスター「ペリー遠征の石版画」の説明文(横須賀市自然・人文博物館)転載
歴史の証言者!
この絵は1853年ベリー来日の時、随行したドイツ人画家ハイネ・William Heine (正しくはPeter Bernhard Wilhelm Heine)が記録した元絵を、ニューヨークでサロニーが石版画に仕立てた『ベリー提督日本遠征画集』に掲載されているもののひとつです。
ベリー艦隊の公式報告書が、いわゆる『ペリー遠征記』(全3巻)といわれる書物ですが、ここにはハイネの描いた石版画が多数掲載されています。また、ハイネ自身もベリー遠征に関した本を出版しました。そのうえ、『日本遠征画帖』 (1856年)も製作しました。
当時、艦隊には写真家も同行しましたが、その写真は遠征記には掲載されていません。ハイネが残した石版画が画像として残されました。 その独特のタッチは、日本側の絵師が描いた絵巻物と違った視点から、日本初上陸の瞬間を切り取った雰囲気を150年を経た現在に伝えてくれます。(問い合わせは、横須賀市自然・人文博物館)

ペリー提督が初上陸した現在の久里浜海岸
ペリー上陸記念碑(久里浜7-14)
ペリー記念館(久里浜7-14)

2018年4月19日木曜日

三笠公園の鯉のぼり

三笠公園大滝(壁泉)の上に、鯉のぼりが飾られ、晴天の青空の下、薫風を受け、悠々と泳いでいた。見学に来ていた園児は、大喜びであった。
大滝の上で泳ぐ鯉のぼり
音楽噴水に合わせ、たなびく鯉のぼり
見入る園児、行儀の良さに感心

2018年4月14日土曜日

横須賀ゆかりの人物

横須賀とゆかりの深い歴史上の人物 ~ ① 三浦義明、② 三浦按針(ウイリアム・アダムス)、③ マシュー・カルブレイス・ペリー(ペリー提督)、④ 中島三郎助、⑤ 勝海舟、⑥ フランソワ・レオンス・ヴェルニー、⑦ 小栗上野介と栗本鋤雲、⑧ 東郷平八郎、⑨ 前島密、⑩ ベントン・W・デッカー ~ を紹介します。

① 三浦義明
三浦義明(1092年~1180年)は、平安時代末期の相模国三浦郡衣笠城の城主。自分の兄弟、息子らを三浦半島全域にわたって配置して領地を治めた。源氏の再興に尽力。最後は衣笠城で討死。
平安時代の三浦一族の拠点
衣笠城址(衣笠町29)
三浦義明菩提寺「満昌寺」(大矢部1-5-10)
三浦義明座像(満昌寺)
三浦義明廟所(満昌寺)
② 三浦按針(ウイリアム・アダムス)
三浦按針は、英国人で、本名はウイリアム・アダムズ(1564年-1620年)と言う。
1598年6月、33歳の時、オランダの東洋遠征探検艦隊の航海士として、5隻の船団でロッテルダム港を出航した。相次ぐ海難事故に遭遇、リーフデ号だけが残った。
1600年4月、豊後の臼杵に漂着、藩主太田一吉に救われた。
1600年5月、大阪城で大老徳川家康に謁見した。信任を得て、城地である江戸に招かれた。外交顧問として重用され、砲術・造船術・航海術などの西洋文明を伝えた。伊東で、日本初の洋式帆船も建造した。
慶長10年(1605年)、家康はアダムズの功績を称え、相州三浦郡逸見村に250石の領地を与えた。姓は三浦(三浦半島に因む)、名は按針(水先案内人の意)。三浦按針は、青い目のサムライとして、日本史上唯一の外国人領主となった。妻は、江戸日本橋大伝馬町の名主の娘であった。
元和6年(1620年)、按針は平戸で病死し、55年の生涯を閉じた。
按針の遺言により、按針の領地であった逸見の塚山公園に供養塔が建てられた。
大正12年(1923年)、国指定の史跡となった。
三浦按針(ウイリアム・アダムス)
三浦按針菩提寺「浄土寺」(西逸見町1-11)
三浦按針念持佛(三浦按針が持ち歩いていたと言われる)
鹿島神社(西逸見町2-70)
按針と妻ゆき、2人の子供が住んでいた屋敷はこの辺りにあった。
塚山公園(西逸見町3)
西逸見町の丘陵にある県立の都市公園
三浦按針夫妻供養塔(塚山公園)
③ マシュー・カルブレイス・ペリー
マシュー・カルブレイス・ペリー(1794年~1858年)は、アメリカ大統領の日本開国を求める親書をもって、嘉永6年(1853年)、黒船で浦賀沖に来航した。翌年に再来港、江戸幕府はアメリカ合衆国と「日米和親条約」を締結した。この条約で、下田と箱館(現在の函館)を開港、永い鎖国体制は終焉を迎えた。
ペリー提督
日本人が描いたペリー提督
ペリー記念館(久里浜7-14)
ペリー提督の生家(ペリー記念館)
黒船初来航ジオラマ(ペリー記念館)
黒船艦隊旗艦「サスケハナ号」(浦賀コミュニティセンター分館)
黒船初来航の様子を伝える記録(ペリー記念館)
ペリー上陸記念碑(久里浜7-14)
④ 中島三郎助
中島三郎助(1821年~1869年)は、幕末の幕臣で、横須賀生まれの浦賀奉行所与力。嘉永6年(1853年)、ペリー来航時、黒船に乗り込み折衝に当たった。黒船艦隊を目の当たりにした三郎助は、幕府に対し日本でも大型軍艦を持つことの必要性を説き、翌年の5月には、着工以来わずか8ヶ月という短期間で、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を誕生させた。その後、三郎助は、長崎海軍伝習所(江戸幕府が設立した海軍士官養成教育機関)の第1回生として派遣され、勝海舟や榎本武揚らと共に造船・操船技術を習得し、近代造船学の指導的な立場となった。最後は、箱館戦争で新政府軍と対戦、2人の息子と共に戦死。
浦賀コミュニティセンター分館展示室(浦賀7-2-1)
ペリー提督、久里浜上陸の新聞報道(浦賀コミュニティセンター分館)
浦賀奉行所模型(浦賀コミュニティセンター分館)
日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」模型(浦賀コミュニティセンター分館)
浦賀奉行所跡(西浦賀5-17-2) 
中島三郎助招魂碑(愛宕山公園、 西浦賀 1-9-3)
浦賀コミュニティセンター分館発行
小冊子「浦賀奉行所と与力・中島三郎助」転載
 

⑤ 勝海舟
勝海舟(1823年~1899年)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)。安政5年(1858年)、日米修好通商条約が締結。安政7年(1860年)、批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号に乗り、日本の使節団が渡米。咸臨丸は、その時の随伴船で、勝海舟・福沢諭吉・ジョン万次郎などが乗船、浦賀港から出港した。37日間の航海の後、咸臨丸はサンフランシスコ湾頭に到着、日本初の太平洋横断の偉業であった。勝海舟は、浦賀港出航の折り、航海の成功を祈願し、東叶神社に参詣、境内にある井戸水を汲み、水ごりを済ませ、社殿裏山の「奥の院」の片隅で座禅を組み、断食修業を行った。
勝海舟
日本で初めて太平洋を横断した「咸臨丸」模型
(浦賀コミュニティセンター分館)
咸臨丸出港の碑(愛宕山公園、 西浦賀 1-9-3)
東叶神社(東浦賀2-21-25)
勝海舟が断食修行の折使用した井戸(東叶神社)
東叶神社「奥の院」
勝海舟断食之跡
⑥ フランソワ・レオンス・ヴェルニー
フランソワ・レオンス・ヴェルニー(1837年~1908年)はフランスの技術者。横須賀製鉄所や観音埼灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。
ヴェルニー公園(汐入町1-1-1)
ヴェルニー胸像(ヴェルニー公園)
ヴェルニー記念館(ヴェルニー公園)
明治時代初期の横須賀製鉄所全景
現在の米海軍横須賀基地周辺の上空写真
ヴェルニーが造ったドライドックは現在も稼働中
ヴェルニーが設計した初代観音埼灯台
⑦ 小栗上野介と栗本鋤雲
小栗上野介(1827年~1868年)は、幕臣で、勘定奉行、外国奉行、陸軍奉行、軍艦奉行を歴任。万延元年(1860年)、遣米使節の一員として渡米。
栗本鋤雲(1822年~898年)も幕臣で、学問所頭取、軍艦奉行、外国奉行を歴任。小栗と共に親仏政策の推進者であった。
多難な幕末期であったが、小栗は英断をもって横須賀製鉄所の建設を画策、盟友栗本とフランス人技師ヴェルニーの協力を得て、一寒村であった横須賀に近代的な総合工場、横須賀製鉄所を誕生させた。日本の近代化は、横須賀製鉄所から始まったと言われている。
小栗上野介
栗本鋤雲
⑧ 東郷平八郎
東郷平八郎(1848年~1934年)は、連合艦隊の司令長官。日露戦争で旗艦「三笠」に乗艦し、ロシアのバルチック艦隊を撃破した。
東郷平八郎元帥銅像と記念館「三笠」
記念館「三笠」
連合艦隊司令部
艦橋で指揮する東郷平八郎元帥
東郷平八郎元帥 書
「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」
⑨ 前島密
前島密は、「郵便制度の父」として知られる。ペリー艦隊が浦賀沖に来航した際、江戸幕府の接見役、井戸石見守の従者として、黒船を目の当たりにする。この時の経験から、日本近代化の必要性を痛感し、勉学に励んだと言われている。
前島密
前島密菩提寺「淨楽寺」(芦名2-30-5)
前島密墓所(淨楽寺)
⑩ ベントン・W・デッカー
ベントン・W・デッカーは、米海軍横須賀基地司令官。在任期間:昭和21年(1946年)4月10日~昭和25年(1950年)6月30日。
在任中、多くの学校・病院・教会などを設立、戦後の横須賀再興に尽力を注ぎ、広く市民から愛された司令官であった。
米海軍横須賀基地司令部
デッカー司令官胸像(中央公園、深田台19)