2017年2月28日火曜日

ガイドツアー 「三浦路と和田義盛ゆかりの地」

よこすかシティガイドと歩く「河津桜咲く三浦路! そして和田義盛ゆかりの地へ」に参加してきました。
京急三浦海岸駅前9:30集合。三浦海岸の河津桜は、平成11年(1999年)から植栽が始まり、現在約1,000本が育てられています。平成14年からは、桜祭りが開催されるようになりました。今日は2月28日、残念ながら河津桜は満開期を過ぎていました。和田の里は、三浦一族の武将、和田義盛の本貫地と言われ、義盛ゆかりの旧跡が数多く残っている所です。三浦一族は、鎌倉幕府の創設に尽力し、その中で重要な役割を担いました。ツアーは、地場の新鮮野菜が販売されている「すかなごっそ」で終了、12:30に自由解散となりました。好天に恵まれ、楽しい見学会でした。帰路は、「すかなごっそ」から京急三浦口駅まで徒歩で移動(約3㎞)、電車に乗って14:00に帰宅しました。
歩数:約18,000歩、行程距離:約10㎞

1 見学コース
京急三浦海岸駅(集合9:30)→上宮田海防陣屋跡→河津桜並木→小松ヶ池→来福寺→日枝神社→朝頼塚→わくり井戸→神明白幡神社→天養院→すかなごっそ(解散12:30)

2 見学場所
2-1 京急三浦海岸駅
ピンク色に染まった「京急三浦海岸駅」駅名標

2-2 上宮田海防陣屋跡
弘化4年 (1847年)、 野比村から長谷村までの相州沿岸警備を命じられた彦根藩は、三崎の陣屋を川越藩から引き継ぐと同時に、上宮田に陣屋を築き、600人前後の藩士を駐在させたと言われています。嘉永6年 (1853年)に長州藩と交代するまで、足掛け7年駐在しました。この間、嘉永4年 (1851年)には吉田松陰が視察に訪れ、その日記に「大津の川越藩の陣屋より大規模」と記しています。また、嘉永6年 (1853年)にベリー艦隊が来航した時には、川越藩とともに警備に出動しました。その後、陣屋は長州藩、熊本藩、佐倉藩と引き継がれ、慶応3年(1867年)に浦賀奉行所支配となって、明治維新を迎えました。敷地は、南下浦市民センター付近約1万坪に及んだと言われています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-3 河津桜並木
三浦海岸河津桜

2-4 小松ヶ池
この池の名前は、享保15年(1730年)の記録に見られます。その後、涸れて荒れ果てていたものを、安政3年(1853年)頃に改修が行われ、灌漑用のため池として利用されるようになったと言われています。池の名については、次のような伝説があります。
昔、近<に仲の良い夫婦が姑と住んでいました。夫婦仲を妬んだ姑が、田植え時のある日、田植えを今日中に済ませるよう嫁に言いつけました。律儀な嫁はこの言いつけを守って、赤ん坊を背負いながら田植えをしましたが、終えた時には夜になってしまい、疲れ果てて死んでしまいました。その後、この田んぼは、耕されることな<池になってしまいました。嫁の名を小松と言ったことから「小松ヶ池」と呼ばれるようになったと言われています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-5 小松ヶ池から来福寺に向かう山道

2-6 来福寺
寺伝によると、建永年間(1206年~7年)、利田義盛が開基となり、僧祐憲により鎌倉名越に建立されたのが始まりとされます。義盛は、三浦大介義明の孫で、頼朝の鎌倉幕府立ち上げに功があったことから、侍所の初代別当に任ぜられた武将です。後に、北条義時の策謀に乗せられ「和田の乱」(建暦3年/1213年)を起こし、一族は滅亡しました。寺はその後、建保5年(1217年)に和田の地に移転し、「和田の乱」で敗れた義盛を供養する菩提寺となりました。元は、天台宗でしたが、浄土宗鎌倉光明寺の末となった時期を経て、江戸時代初期に浄土真宗に変わり、現在に至っています。
元禄10年 (1698年)の棟札が残る本堂は、数度の改修を経ていますが、軸組みは往時のままと言われています。また、寺宝として、義盛公自身が鑿を入れたと言われる義盛公の本像が伝えられています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-7 来福寺から日枝神社に向かう 

2-8 日枝神社
日枝神社の地は、「塔の台」とも呼ばれ、和田義盛が信仰する地蔵尊を祀る地蔵堂があった所と言われています。後に、和田合戦から生き延びた孫の朝盛(とももり)が、家来と共にこの地に逃れ、高円坊と名乗り田畑を開墾して余生を送ったと伝えられています。高円坊の地名は、これに由来すると言われています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-9 朝頼塚
日枝神社の前にはかって公園があり、大正10年(1911年)には和田朝盛を顕彰する碑が建立されましたが、公園は太平洋戦争中に食料増産のために畑となり、今は碑だけが残されています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-10 わくり井戸
かつて、塔の台の山すそにあった湧き水は、三浦五井のひとつ「大井戸」とも言われ、そこからの流れは、和田の里の田畑を潤していました。和田義盛が塔の台の地蔵尊に参拝する時、その流れて水垢離をしたと言われ、 この川には「精進川」の名が付けられていたと伝えられています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-11 和田の里
実り豊かな和田の里

 2-12 神明白幡神社 
「新編相模国風土記稿」では、「白旗明神社」として「利田義盛の霊を祀り、その肖像をご神体とす」とあります。また、明治以降に編纂された地誌によると、利田―族が北条―門と戦をして滅びた建暦3年(1213年)から51年後の弘長3年(1263年)に、里人が和田義盛の遺徳を称えて創建したとしています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-13 天養院(五劫山宝泉寺)
永禄2年(1559年)創建と伝えられる浄土宗の寺院で、本堂は江戸時代の建立と言われています。本尊は、阿弥陀如来ですが、三浦地蔵尊17番札所にもなっています。また、行基作と伝えられる薬師如来像が客仏として祀られています。 
この像は、平安時代後期、11世紀ころの作と考えられており、脇侍の日光・月光菩薩像とともに神奈川県の指定文化財になっています。元は、利田義盛の館の鬼門の鎮護として建立された安楽寺(廃寺)の本尊だったものを昭和18年に移したものです。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-14 すかなごっそ(長井ファーマーズマーケット)で自由解散
2011年6月2日にオープンした大型農産物直売所で、JAよこすか葉山が運営しています。敷地面積は約7,000㎡、148台が駐車可能で、地元の336軒の農家が持ち寄る新鮮な農産物を販売しています。(ガイドツアー配布資料より転載)

2-15 すかなごっそから京急三崎口駅へ徒歩で移動(約3㎞)
国道134号線(間もなく、京急三崎口駅に到着です)

2-16 京急三崎口駅(京急久里浜線終着駅)
三崎口駅で乗車、帰宅の途につきました。

2017年2月27日月曜日

横須賀市民割2017 HONEY BEE「ヨコスカネイビーバーガー」

今日は、2月27日(月)。横須賀市民割2017は、後一日で終わりです。友人2人を誘い、市民割参加店「HONEY BEE」で、横須賀の人気グルメ、「ヨコスカネイビーバーガー」を食べてきました。「ヨコスカネイビーバーガー」は、米海軍横須賀基地より提供されたレシピから生まれた本場のアメリカンバーガーです。
「HONEY BEE」は、米海軍横須賀基地の正門前にあり、創業は1968年、人気の「元祖ヨコスカネイビーバーガー店」です。平日にもかかわらず、店内は満席状態でした。レギュラーコンボを注文、通常価格の1,600円が1,200円に市民割されていました。食べ応えがある巨大バーガーでした。帰路、三笠通りの喫茶店で一休止、友人と暫し談笑してから、帰宅しました。楽しい一日でした。

HONEY BEE(ハニービー)

巨大なヨコスカネイビーバーガーレギュラーコンボ

サンマルクカフェ(帰路、コーヒーとプリンアラモードで一休止)

2017年2月24日金曜日

横須賀市民割2017 大黒堂「よこすか猿麺」

横須賀市民割2017は、2月28日で終了です。今日は、上町にある市民割参加店「大黒堂」に行ってきました。早速、お目当ての「横須賀グルメグランプリ」で優勝した「よこすか猿麺(さるめん)」を注文。評判通り、猿麺のモチモチ感とコノシロ出汁とのコラボが最高でした。
「猿麺」は、「猿島わかめ」を練りこんだ特注麺です。「わかめ」と言えば、三陸産や鳴門産が有名ですが、東京湾でも、無人島「猿島」の周辺で養殖されています。これが「猿島わかめ」で、柔らかくて歯触りが良いと評判です。

「大黒堂」暖簾

猿麺の看板

大黒堂「よこすか猿麺」
2014年 第1回横須賀グルメグランプリ 優 勝
2015年 第2回横須賀グルメグランプリ 準優勝

お土産用の「猿島わかめ」や「猿麺」

市民割の「よこすか猿麺」
「猿麺」とコノシロ出汁とのコラボが最高でした。

猿島わかめの「めはり寿司」も、同時に注文しました。

2017年2月23日木曜日

「浦賀水道」航路

「浦賀水道」は、三浦半島と房総半島に挟まれた海峡である。
この海峡は、「古事記」や「日本書紀」の日本神話にも出てくる。日本武尊が、相模国から上総国に渡ろうとした時、突然暴風雨が発生して立往生、行き来もできない状態に陥った。この窮地を救ったのは、后の弟橘媛命であった。弟橘媛命は、日本武尊の身代りとなって海中に身を投じた所、海は凪ぎ、風は静まり、日本武尊一行の軍船は、水の上を走るが如くに上総国に渡ることができた。以来、この地は、「水走る」を意味する「走水(はしりみず)」の地名となった。
江戸時代に入ると、浦賀水道は、海上交通路としての重要性が増してきた。慶安元年(1648年)、幕府は、浦賀水道の入口岬(燈明崎)に、和式灯台の「燈明堂」を建設した。菜種油で灯された光は、対岸の房総半島からも確認できたと言われている。享保5年(1720年)、西浦賀に浦賀奉行所が置かれた。その役目は、船改め等の仕事であったが、文化・文政(1804年~1830年)の頃から、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から、江戸を防備するための海防の役割も果たしていた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが、黒船で浦賀沖に初来航し開国を迫った。翌年に再度来航し、日米和親条約が締結された。安政5年(1858年)、日米修好通商条約が結ばれ、横浜が開港された、浦賀水道は、横浜港への重要な航路としての役割が一層高まってきた。
幕府は、燈明堂に代わる日本初の洋式灯台の「観音埼灯台」の設置を決定した。設計は、横須賀製鉄所の首長であったヴェルニーが担当し、明治2年(1869年)に完成した。現在の灯台は三代目である。
浦賀水道は、国防上も重要な海域であったため、明治時代には浦賀水道を囲む形で東京湾要塞が造られた。陸上には砲台が、海上には第一、第二、第三海堡が建造された。第三海保は、船舶の安全を確保するため、平成19年(2007年)に撤去された。
戦後、浦賀水道の交通量は、経済発展に伴い飛躍的に増加した。そのため、海上保安庁は、昭和52年(1977年)、レーダー、テレビカメラ、VHF無線機、気象観測装置、自動船舶識別装置 (AIS) などを装備した「東京湾海上交通センター(東京マーチス)」を設置した。現在、浦賀水道を北航・南航する船舶は、東京マーチスが航行管制を行っている。

1 地図による案内
①浦賀水道 ②走水 ③御所ヶ崎 ④走水神社 ⑤燈明堂 ⑥浦賀奉行所跡
⑦観音埼灯台 ⑧東京湾海上交通センター(東京マーチス)

2 走水と走水神社
走水から見た浦賀水道、遠方は房総半島

 弟橘媛命が身を投じた地、御所ヶ崎

 走水神社(主祭神:日本武尊と弟橘媛命)

弟橘姫命の記念碑

3 浦賀水道を航行する大型船舶・原子力空母
コンテナ船(2016年、シップウオッチングクルーズで撮影)

自動車運搬船(2016年、シップウオッチングクルーズで撮影)

原子力空母「ジョージ・ワシントン」(2013年、観音崎で撮影)

4 「燈明堂」ー慶安元年(1648年)に建設ー
「燈明堂」説明板

西浦賀の燈明崎に建つ「燈明堂」

浦賀水道から見た「燈明堂」
(2016年、灯台めぐりクルーズで撮影)

5 「観音埼灯台」ー明治2年(1869年)に建設ー
「観音埼灯台」説明板

初代「観音埼灯台」を設計したヴェルニー胸像

初代「観音埼灯台」

現在の「観音埼灯台」

「観音埼灯台」光源部

「観音埼灯台」は、昭和32年(1957年)封切の大ヒット映画
「喜びも悲しみも幾歳月」のファーストシーンに登場した
(ウイキペディアより転載)

6 「東京マーチス」ー昭和52年(1977年)に建設ー
「東京マーチス」航行管制タワー

レーダーアンテナと浦賀水道航路

7 「観音埼灯台」と「東京マーチス」のツーショット
観音崎の高台に建つ「観音埼灯台」(前方)と「東京マーチス」(遠方)
ツーショットは、浦賀水道の海上からのみ撮影可能
(2016年、灯台めぐりクルーズで撮影)

8 東京湾海堡
第一海堡(2016年、シップウオッチングクルーズで撮影)

第二海堡(2016年、シップウオッチングクルーズで撮影)

引き揚げられた第三海堡兵舎(うみかぜ公園)