この海峡は、「古事記」や「日本書紀」の日本神話にも出てくる。日本武尊が、相模国から上総国に渡ろうとした時、突然暴風雨が発生して立往生、行き来もできない状態に陥った。この窮地を救ったのは、后の弟橘媛命であった。弟橘媛命は、日本武尊の身代りとなって海中に身を投じた所、海は凪ぎ、風は静まり、日本武尊一行の軍船は、水の上を走るが如くに上総国に渡ることができた。以来、この地は、「水走る」を意味する「走水(はしりみず)」の地名となった。
江戸時代に入ると、浦賀水道は、海上交通路としての重要性が増してきた。慶安元年(1648年)、幕府は、浦賀水道の入口岬(燈明崎)に、和式灯台の「燈明堂」を建設した。菜種油で灯された光は、対岸の房総半島からも確認できたと言われている。享保5年(1720年)、西浦賀に浦賀奉行所が置かれた。その役目は、船改め等の仕事であったが、文化・文政(1804年~1830年)の頃から、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から、江戸を防備するための海防の役割も果たしていた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが、黒船で浦賀沖に初来航し開国を迫った。翌年に再度来航し、日米和親条約が締結された。安政5年(1858年)、日米修好通商条約が結ばれ、横浜が開港された、浦賀水道は、横浜港への重要な航路としての役割が一層高まってきた。
幕府は、燈明堂に代わる日本初の洋式灯台の「観音埼灯台」の設置を決定した。設計は、横須賀製鉄所の首長であったヴェルニーが担当し、明治2年(1869年)に完成した。現在の灯台は三代目である。
浦賀水道は、国防上も重要な海域であったため、明治時代には浦賀水道を囲む形で東京湾要塞が造られた。陸上には砲台が、海上には第一、第二、第三海堡が建造された。第三海保は、船舶の安全を確保するため、平成19年(2007年)に撤去された。
戦後、浦賀水道の交通量は、経済発展に伴い飛躍的に増加した。そのため、海上保安庁は、昭和52年(1977年)、レーダー、テレビカメラ、VHF無線機、気象観測装置、自動船舶識別装置 (AIS) などを装備した「東京湾海上交通センター(東京マーチス)」を設置した。現在、浦賀水道を北航・南航する船舶は、東京マーチスが航行管制を行っている。
1 地図による案内
1 地図による案内
①浦賀水道 ②走水 ③御所ヶ崎 ④走水神社 ⑤燈明堂 ⑥浦賀奉行所跡
⑦観音埼灯台 ⑧東京湾海上交通センター(東京マーチス)
2 走水と走水神社
走水から見た浦賀水道、遠方は房総半島
弟橘媛命が身を投じた地、御所ヶ崎
走水神社(主祭神:日本武尊と弟橘媛命)
弟橘姫命の記念碑
3 浦賀水道を航行する大型船舶・原子力空母
コンテナ船(2016年、シップウオッチングクルーズで撮影)
自動車運搬船(2016年、シップウオッチングクルーズで撮影)
原子力空母「ジョージ・ワシントン」(2013年、観音崎で撮影)
4 「燈明堂」ー慶安元年(1648年)に建設ー
「燈明堂」説明板
西浦賀の燈明崎に建つ「燈明堂」
浦賀水道から見た「燈明堂」
(2016年、灯台めぐりクルーズで撮影)
5 「観音埼灯台」ー明治2年(1869年)に建設ー
「観音埼灯台」説明板
初代「観音埼灯台」を設計したヴェルニー胸像
初代「観音埼灯台」
現在の「観音埼灯台」
「観音埼灯台」光源部
「観音埼灯台」は、昭和32年(1957年)封切の大ヒット映画
「喜びも悲しみも幾歳月」のファーストシーンに登場した
(ウイキペディアより転載)
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