2017年2月13日月曜日

日本遺産認定講座「近代史の中の横須賀ストーリー」(全2回)

平成28年4月25日、旧軍港4市(横須賀・呉・佐世保・舞鶴)の文化遺産が、日本遺産に認定されました。全2回(全4時間)、日本遺産に認定された横須賀のストーリーと、その文化遺産を解き明かす歴史講座が開講されました。講師は、横須賀開国史研究会会長の山本詔一先生、会場となった衣笠コミュニティーセンーの集会室は満席となりました。歴史教科書には無い、多数の逸話もありました。先生は、軽妙な語り口で受講生を魅了、笑いもあり、続篇が聞きたくなるような楽しい歴史講座でした。

参考資料 配布講義プリント
     横須賀造船所散歩パンフレット(横須賀開国史研究会発行)

第1回 平成29年2月1日(水) 13:30~15:30
第2回 平成29年2月8日(水) 13:30~15:30

1 講座案内チラシ

2 会場(衣笠コミュニティーセンター3F 集会室)までのルート
散歩がてら、徒歩で、県立大学駅から、宇東川緑道を通り、衣笠コミュニティーセンターに向かいました。約50分の道のりでした。途中の宇東川緑道は、徒歩専用道路で、車の行き来も無く、快適な散歩コースでもありました。
宇東川緑道

衣笠コミュニティーセンター

会場 3階 集会室

3 講座名 日本遺産認定講座「近代史の中の横須賀ストーリー」
4 講 師 山本詔一 先生
横須賀開国史研究会 会長
著書等 「ヨコスカ開国物語」「浦賀与力・中島三郎助の生涯」 その他多数

5 講座内容
第1回 2月1日(水) 13:30~15:30
第1章 ペリー来航
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、米国ペリー艦隊(旗艦:蒸気船サスケハナ号)が浦賀沖に来航した。同年6月9日(7月14日)、久里浜海岸に急ごしらえの応接室で、幕府側代表の戸田伊豆守と井戸石見守が、フィルモア大統領の親書を受け取った。幕府は、最新技術の蒸気船や、身体動作(一糸乱れぬ行進)を目の当たりにして、時代の潮流には抗しきれずと判断した。そして、親書を一般公開し、筆頭老中の阿部伊勢守正弘は、広く民衆の意見を求めた。何れも、幕府開府以来、初めての出来事であった。意見書の中には、当時、下級武士であった勝海舟の「海防意見書」も含まれていた。翌嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を締結、下田、函館の2港を開港した。ここに、長い間の鎖国政策が終焉し、日本は世界に向けて第一歩を踏み出した。「日本近代化の波」は、「よこすか」で息吹き、全国に伝播・拡散して行った。

横須賀ゆかりの人物:中島三郎助
ペリー来航時、浦賀奉行所与力だったが、同僚の与力・香山栄左衛門を浦賀奉行、自分を副奉行と偽って日本人として初めて黒船に乗り込み、アメリカ側と交渉に当たった。その後、時間による労働管理や労働環境を整備して、短期間で日本初の大型洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。幕府は、海軍の士官を養成する機関、長崎海軍伝習所を開設した。浦賀奉行所からは、中島三郎助が1期生として派遣された。同期生には、咸臨丸で太平洋を始めて横断した勝海舟も含まれていた。咸臨丸は、安政7年1月19日(1860年2月10日)に浦賀港を出港、37日間の航海の後、サンフランシスコの湾頭に最初の日の丸を翻した。

第2章 横須賀造船所開設に動き出す
日米修好通商条約に基づき、安政6年6月2日()1859年7月1日)に横浜が開港された。横浜開港に伴い、江戸湾内で船舶を修理できる場所と、造船も可能な港の必要性が高まってきた。ここから、横須賀造船所の開設が動き出すことになる。
文久2年(1862)4月 オランダ人技師を招き、機関工場建設へ動きが始まる。
   2年6月 幕府役人による候補地選定
   8月 生麦事件、機関工場計画が一旦頓挫
元治元年(1864)3月 フランス公使としてロッシュが着任、
     建設に協力的であった。
     通訳兼書記官に、日本語に通じたカションがなった。
     軍艦建造に熱心であった小栗上野介が勘定奉行に着任した。
     函館にいた栗本瀬兵衛(鋤雲)が神奈川奉行所に着任した。
     栗本とカションは、同時期に函館にいて、交友関係にあった。
     小栗と栗本は竹馬の友であり、忌憚のない話し合いができた。
元治元年11月3日 小栗・栗本がロッシュと面会
     ロッシュは、本格的な造船所(修理工場をも含めた)の建設を勧めた。
     さらに、中国にいるフランス人技師のヴェルニーに協力を求めていた。
   11月10日 老中がロッシュにヴェルニーの斡旋・紹介を依頼した。
   11月26日 小栗・栗本・軍艦奉行木下謹吾とロッシュ・ジョレス提督・
     他のフランス人士官が、横須賀と比較するため長浦を見分した。
     その結果、横須賀が最適であると決定した。
   12月9日、ロッシュと3人の老中が造船所計画で会談、予算等を相談した。
元治2年(1865)1月、ヴェルニー来日
     幕府とヴェルニーとの間で、建設方法・事務取扱・フランス人の組織・
     日本側の組織・購入品・エ程など8項目の設立原案が作成された。
     ここに、日曜休日や、西洋時計による労働時間、賃金が月給制度と
     なる等のことが記されている。
  1月29日 約定書作成
  2月 ヴェルニーが、フランス技術者の雇用や、
     工作機械の購入等でー時帰国した。
慶応元年(1865)4月 外国奉行・柴田剛中がヨーロッパヘ派遣された。
     肥田浜五郎が同行した。肥田がオランダから購入した工作機械類は
     974台であった。この中には、スチームハンマーも含まれていた。
  9月27日 鍬入れ式 (太陽暦では11月15日)
     内浦・自仙・三賀保の三湾が埋め立てられ、
     背後の山地、11万坪が切り開かれた。
  10月 ヴェルニーがフランスで追加購入した工作機械217台が到着した。
慶応2年2月 建築関係のフランス人技術者が来日した。
  5月 ヴェルニーが再来日した。
     ヴェルニーの意向で、製鉄所建築用レンガの全てが、所内で製造された。
  6月 横須賀―横浜間に定期船が就航した。
  7月 工業用引き船として30馬力の船が製造された。
     横須賀製鉄所で、「横須賀丸」が初めて建造された。

第2回 2月8日(水) 13:30~15:30
講義内容:「横須賀明細一覧図を読む」
横須賀明細一覧図は、明治12年(1879年)に初刊が発行、14年、16年、17年、18年(1885年)、21年、23年、28年、39年と、続けて発行された。これらは、横須賀造船所の見学に訪れた人々に土産物として配られた。講義では、明治18年(1885年)発行版を用い、当時の町の様子が、詳細に解き明かされた。

1 全体図 横須賀明細一覧図(日本遺産認定) 明治18年(1885年)発行版
全体図

2 横須賀明細一覧図(横須賀製鉄所近辺)
1 表門
表門には、二本の大きな石の門柱が建てられていた。塀は石積みで、その上には当時としては珍しい、先端が槍のように加工された鉄製の柵が設けられていた。見学者は、この表門より造船所内に入り見学した。トヨタグループの創始者、豊田佐吉も見学に訪れていた。
2 検査係
造船所表門前に検査掛として巡査(警察官)が詰め、造船所へ出入りする人々の用件や、見学者が「見学許可証Jを持っているか否かを調べた。 また、検査係は、造船所内の警備も担当していた。
3 模型・滑車所
製図所で作成した図を使って、機械の木製鋳型を作っていた。そのため、鋸、鉋、ろくみ、錐などの機械が使われていた。
4 黌舎(こうしや)
造船技術を教える高等専門学校であった。優秀な生徒には、フランスなどへの留学も用意されていた。黌(こう)は、まなびや、学校と同意である。
5 官廳(庁)
役所とも呼ばれ、造船、機械、艤装、庶務、計算、記録、製図などの諸科があった。 これらの諸科が、造船所の事務を担当し、工場の運営や艦船の建造、修理などの計画や、職員の人事を行っていた。 また、庁内の製図所では、艦船の設計図や、さまざまな機械の図面を作成していた。
6 鳴鐘
製鉄所の作業開始や、昼食、終了時刻が一斉になるように、この鐘が鳴らされた。また、鐘を正確に鳴らすため、官庁の時計などが使われていた。 
7 構内鉄道
造船所構内には、いろいろな物資を大量に運搬できるように、構内鉄道のレールが敷設されていた。 この構内鉄道により、重量のある製品も容易に運ぶことができた。
8 錬鉄所
製鉄所で作成した図や鋳型を使って、鉄を鍛錬し、成型する工場であった。現在、国指定の重要文化財となっているスチームハンマーは、 この工場で使用されていた。厚い鉄板も豆腐のように簡単に切ってしまうスチームハンマーは、造船所見学の見所の一つだった。錬鉄所内には、反射炉(金属溶解炉)も設置されていた。
9 製鑵所
艦船を動かす動力の源、蒸気釜を製作していた。各種金属を曲げたり、鋲で接着する、穴を開ける、 削るなどの加工のため様々な機械が使われていた。
10 鋳造所
模型所で造った木製鋳型に溶かした鉄や銅を流しこんで、機械部品を造っていた。そのため、 このエ場には、鉄や銅を溶かす溶鉄炉、溶鉛炉が設置され、攪泥機械、坩堝が使われていた。
11 鉄骨所
鉄製の艦船を建造するために必要な鉄骨や鉄板を製造していた。そのために、鉄を曲げる機械や鉄骨・ 鉄板に穴を開ける機械などが備えられていた。
12 旋盤所
造船所内で最も大きな工場で、錬鉄所、鋳造所などで製造した部品を完成させる工場であった。工場の天井には、2台の運搬機が取り付けられており、重い鉄製の部品も軽々と理ぶことができた。
13 組立所
旋盤鑢鑿所や製鑵所で造った部品を組み合わせ、製品を完成させていた。また、天井には巨人な運搬機を備え、重量のある金属製品を上下左右に自由に移動させることができた。
14 クレーン(物揚機械)
組立所横の岸壁には、蒸気機関を動力とする30トンのクレーンが設置されていた。 
15 ドック(船渠)
艦船の修理や、船底の清掃に使われる施設(ドック)であり、現在も活動中である。。艦船が中に入ると入口を閉じ、排水ボンプで水を抜き、船底の修理、船の速度を遅くする貝や海草を取り除く作業などを行った。大、中、小の3基の船渠があり、当時の大型艦である10,000トンクラスから、小型船まで入渠させることができた。入口の開閉や排水ポンプの動力として、103馬力の蒸気機関が、11基設置されていた。
 1号ドック:明治4年(1871年) 完成
 3号ドック:明治7年(1874年) 完成
 2号ドック:明治17年(1884年) 完成
16 船台・造船小屋
大型が3カ所、小型が2カ所設けられていた。船台は、全て陸地を斜めに地中まで振り下げ、扉によって海水を堰き止めた。そして、船台には、建造中の艦船が傾かないように盤木が置かれた。さらに、艦船の建造中は、船台の周囲に仮小屋を築き、その中で作業を行った。職員は、横須賀造船所で最も多い800人余りが所属していた。
17 電気燈
明治15年(1882)に点灯された。行灯のような暗い明かりしかなかった当時の人々にとって、アーク灯の電気灯は大変な驚きであった。
18 製鋼所(時計台)
製鉄所のシンボル的建物で、慶応3年(1867)に完成した。フランス人貴族、ヴォボワールも見学している。通称「長棟」と呼ばれ、長さ270mであった。この建物のはずれには、日本で最初の時計台があり、その塔の上には、これも日本で最初の避雷針が建っていた。 この時計が、製鉄所の標準時となっていた。
19 水溜
裏門の入口右側にあった。幅6m、長さ60m、深さ2m60㎝で、切石とレンガなどで造られていた。走水より引いた水道水を貯え、ポンプによって諸工場や停泊中の艦船に水を供給していた。
横須賀造船所の稼働率が高くなり、その用水を確保するため、ヴェルニーは走水の多量の湧水に目をつけた。水源地から造船所まで距離は約7km、高低差はわずか10mだったので、効率よく水道管をひくため、途中4箇所にトンネルを掘り。明治9年(1876年)12月に工事は完成した。これが、横須賀の水道の始まりであった。
20 裏門
裏門は、汐留通りに面し、門は二本の木柱で、門に続く塀も板塀になっていた。見学者は、この門から出て行った。
21 首長官舎
製綱所の後の高台に、首長ヴェルニーの官舎があった。その隣には、医師サバチェ邸があった。教会もあった。慶応3年の初めまでに完成した。
22 大滝町
慶応3年(1866)、幕府の命令で約1万㎡を埋め立てた。
23 小川町
明治11年、大滝町の山崖を削り埋め立てた。初代郡長・小川茂周の主唱によったので、「小川町」と名付けられた。明治14年頃から、東京への汽船の発着所が設けられた。
24 警察署
明治10年、元町に横須賀警察暑が設置された。13年、旭町に移転した。一覧図にあるのはこの警察署である。明治41年(1908)、若松町へ移転までこの地にあった。
25 電信局
明治9年、稲岡町に設置された(一覧図の場所)。明治22年(1889)、造船所裏門前に郵便局と合併し移転した。大正3年(1914)、大滝町へ移転した。
26 元町・三富屋
明治12年版から掲載されている、表門近くで、大きな構えの旅館だった。「横須賀繁昌記』の旅宿の筆頭にも紹介されている。港町には支店があった。
27 職工学校
慶応3年、三浦半島の10歳以上の子どもに学力と技術の両方を教えた。「黌舎」と呼ばれ、創設時は製鉄所内にあった。
28 鎮守府庁舎
明治17年12月、横浜にあった「東海鎮守府」が、横須賀に移転してきた。明治20年に建築が始まり、23年4月に完成した。 

3 横須賀明細一覧図(左半分)
29 港町
明治4年頃に埋立地につくられた町である。明治22年1月の火災で焼失した。焼失後は、海軍用地となり、昭和20年に変換されるまで、一般の人々の立入りは禁止となっていた。現在は、ヴェルニー公園として、市民憩いの場になっている。
30 人力車
人力車が何台か走っている。
31 横須賀駅
明治22年(1889)6月に、横須賀駅が開業した。当然、18年版には描かれていない。23年版から、駅が描かれた。
32 逸見村
33 消毒所
西南戦争に従軍し、帰還した船から「コレラ」患者が出て、その患者を隔離し、帰還船の検疫を行った所である。現在、官修墓地がある。
34 長浦
35 夏島

4 横須賀明細一覧図(右半分)
36 猿島(砲台)
幕末の1847年、江戸幕府により、国内初の台場として築造された。明治時代に入ると、軍の所管となり、東京湾要塞の一環として猿島砲台が築造された。2003年、横須賀市が国から猿島の無償譲与を受け、「猿島公園」として整備した。東京湾唯一の無人島・自然島で、横須賀市の観光名所地として、年間、約14万人が訪れている。
37 観音崎灯台
明治22年(1869年)に完成し、点灯した。日本初の洋式灯台で、ヴェルニーの設計により建造された。
38 米ヶ浜
39 監獄所
40 黴毒病院
41 海軍病院
明治13年(1880)8月に開院した。大正12年9月の関東大震災で焼失した。大正15年3月、稲岡町ヘ移転した。 
42 平坂
明治11年に開通した。 
43 若松町
明治12年までに埋め立てが完成した。鴨居の若松屋(高橋家)が埋め立てたので、「若松町」となった。  
44 旧浦賀道 
45 郡役所 
明治11年、現在の京急汐入駅付近に開所した。初代郡長は、小川茂周であった。なお、横須賀町役場は諏訪町にあつた。
46 当地ヨリ各所ヘノ里程
東京へ十五里廿三丁 横濱へ七里廿七丁五回ヅツ蒸気船ノ出港アリ 江ノ島へ伍里十八丁 鎌倉へ四里廿一丁 金澤へ二里廿丁 箱根へ十八里 小田原へ十四里 藤澤へ六里三丁 富士山へ五十里 大山へ十三里三丁 浦賀へ二里六丁

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