猿島の名前の由来は、建長5年(1253年)、日蓮上人が安房国から鎌倉へ渡る際、嵐に遭い方角を見失った時に、一匹の白猿が現れて島へ導びき寄せ、難を逃れたとされる場所から、猿島の名前が付いたと言われています。
弘化3年(1846年)、米国のビッドルが軍艦2隻で浦賀に来航しました。外国船の脅威を肌で感じるようになった幕府は、弘化4年(1847年)、猿島に国内初の台場を建造しました。
嘉永6年(1853年)、ペリー提督の率いる黒船4隻(旗艦:蒸気船サスケハナ号)が、浦賀沖に来航しました。各艦から一隻ずつボートが下ろされ、浦賀港周辺の測量が始まりました。その時に造られた海図には、猿島はペリーアイランドと記載されています。
明治時代に入ると、猿島は陸軍省・海軍省の所管となりました。そして、東京湾要塞の一つである猿島砲台が築造されました。島内の岩壁を掘ってレンガで覆った弾薬庫や掩蔽部、地下トンネルの要塞跡、砲台跡等が、現在も残っています。
猿島は、終戦まで一般人の立ち入りは禁止されていました。戦後、国から無償譲与を受けた横須賀市が「猿島公園」として整備、年間、約14万人が訪れる観光名所となっています。猿島は、東京湾唯一の無人島・自然島です。史跡めぐりや、釣り・BBQ・海水浴などを楽しむことができます。
三笠桟橋
猿島航路船(Sea Friend Zero 号)
猿島が近付いてきました(船内より)
猿島桟橋に到着しました
今も残る軍港標識
猿島管理事務所・売店
発電所
島内案内板
切通し
弾薬庫
レンガ造り砲台トンネル入口
現在は、「愛のトンネル」と言われています。
トンネル内部(左側:司令部・掩蔽部・弾薬庫等)
掩蔽部(兵舎)
地上砲台に抜ける階段
トンネル出口
砲台跡(トンネル・掩蔽部)
深い木々で覆われた砲台跡
砲座跡(全部で、5砲座有りました)
猿島から見た東京スカイツリー
千葉君津工業地帯
横須賀市街地
帰りの船便(14:45発)が、猿島桟橋に到着しました
帰りの船便を待つ間、浜辺を散歩する観光客
猿島とお別れです
帰りの船便から見た、横須賀市街地
三笠桟橋に到着しました
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