2018年5月27日日曜日

西叶神社本殿大改修に伴う「仮殿遷座祭」

叶神社は、浦賀地区にある神社で、浦賀港を挟んで二社ある。地元では、西浦賀の叶神社を「西叶神社」、東浦賀の叶神社を「東叶神社」と呼んで区別している。
叶神社(西浦賀):通称、西叶神社
叶神社(東浦賀):通称、東叶神社
浦賀港を挟んだ東西の叶神社(Googleマップ)
西叶神社は、京都神護寺の文覚上人が、養和元年(1181年)、源氏の再興を祈願して石清水八幡宮を勧請し創建。源氏再興成就した頼朝が、文治2年(1186年)に叶大明神と尊称したと伝えられている。
東叶神社は、正保元年(1644年)、西浦賀の叶神社を勧請して創建。

1 願が「叶う」、叶神社
近年、叶神社は、願いが「叶う」パワースポットとして人気を高めている。
2 東西の狛犬で一対の「阿吽像」
通常、本殿前にある左右の狛犬は、口を開けた「阿形」と口を閉じた「吽形」で一対の「阿吽像」をなしている。これとは異なり、西叶神社の狛犬は左右とも口を開け、東叶神社の狛犬はいずれも口を閉じている。これにより、叶神社では、東西の狛犬で、一対の「阿吽像」となっている。
2-1 西叶神社
口を開けた西叶神社の「阿形」狛犬
2-2 東叶神社
口を閉じた東叶神社の「吽形」狛犬
3 西叶神社176年ぶりの本殿大改修に伴う「仮殿遷座祭」
西叶神社は、天保13年(1842年)に建造、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師「後藤利兵衛」の作品である。拝殿の格天井には花鳥の彫刻、本殿には龍の彫刻、棟柱を担ぐ力士像等が彫られている。これまで、部分的な補修は行われていたが、社殿全般の老朽化が目立つようになったため、6月から176年ぶりに本殿大改修が実施されることとなった。工事に先立ち、6月2日(土)、20:00~21:00、本殿からご神体を移す「仮殿遷座祭」が営まれる。
タウンニュース(横須賀版)報道(2018年5月25日号)
176年ぶり本殿大改修に伴う「仮殿遷座祭」
西叶神社修復事業案内板(京急浦賀駅前)
拝殿角天井の花鳥彫刻
龍の彫刻
棟木を担ぐ力士
像の彫刻
亀裂の目立つ彫刻
4 東西叶神社を結ぶ「浦賀の渡し船」
東西の叶神社は、浦賀の港を行き来する「浦賀の渡し船」で結ばれている。
東西の叶神社を結ぶ「浦賀の渡し船」
5 勝海舟断食の跡(東叶神社)
社務所の裏には井戸があり、勝海舟が咸臨丸での太平洋横断前に、この井戸で水垢離をした後、裏山の明神山山頂で断食をしたと伝えられている。
勝海舟断食修業の折に使用した井戸
勝海舟断食の跡

2018年5月21日月曜日

東京湾要塞(台場・砲台・海堡)

参考資料:
NPO法人アクションおっぱま/おっぱまはっけん倶楽部発行
追浜(おっぱま)の歴史遺産 見学のしおり 東京湾第三海堡遺構物語

江戸時代の末期、嘉永6年(1853年)、ペリー提督率いる黒船4隻が浦賀沖に来航した。ペリー来航以前にも、異国船が度々浦賀沖に来航している。これに驚いた幕府は、江戸湾海防のため台場を築き、異国船の侵入に備えた。明治時代になると、政府は、西欧列強国の進攻に備え、浦賀水道を囲む形で沿岸砲台や海堡からなる東京湾要塞施設を建造した。
1 幕末・鎖国時代の海防
江戸時代後期、異国船の来航が激しくなると、幕府は、海防のため江戸湾口に台場を築造した。幕府の命を受けた会津藩は、文化9年(1812年)、観音崎台場を築いた。また川越藩は、天保14年(1843年)、旗山崎台場を築いた。台場跡は残っていないが、観音崎台場は南門砲台跡(展望園地)に、旗山崎台場は走水低砲台跡(旗山崎公園)にあったものと思われる。
文政元年(1818年)、ブラザース号、異国船初の江戸湾来航
ペリー来航の35年前(横須賀市自然・人文博物館所蔵)
1-1 観音崎台場
「観音崎周辺の台場」説明板(展望園地)
展望園地(観音崎台場跡、観音崎南門砲台跡)
1-2 旗山崎台場
「走水番所・旗山崎台場跡」説明板(旗山崎公園)
旗山崎台場の様子
旗山崎公園(旗山崎台場跡、走水低砲台跡)
2 黒船の来航と品川台場の建設
嘉永6年(1853年)、ペリー提督率いる黒船が来航。幕府は11基の品川台場の建設を計画・着工した。
ペリー提督(ペリー記念館)
黒船旗艦「サスケハナ号」(ペリー記念館)
品川台場配置計画図(参考資料転載)
3 明治時代の東京湾要塞
東京湾要塞は、明治政府によって、海からの攻撃に備えるため、明治13年(1880年)より建造が開始された。東京湾周辺に、浦賀水道を囲む形で多くの砲台と海堡が造られた。
東京湾要塞配置図(参考資料転載)
3-1 東京湾口砲台跡
観音崎砲台跡、三軒家砲台跡、走水低砲台跡、千代ヶ崎砲台跡、猿島砲台跡が、保存状態良く残っている。
3-1-1 観音崎砲台跡(北門第一砲台跡)
明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工
24㎝加農砲2門
観音崎北門第一砲台跡
3-1-2 三軒家砲台跡
明治27年(1894年)起工、明治29年(1896年)竣工
27㎝加農砲4門、12㎝加農砲2門
三軒家砲台跡
3-1-3 走水低砲台跡
明治18年(1885年)起工、明治19年(1886年)竣工
27㎝加農砲4門
走水低砲台跡
3-1-4 千代ヶ崎砲台跡
明治25年(1892年)起工、明治28年(1895年)竣工
28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門、12㎝加農砲4門
千代ヶ崎砲台跡
3-1-5 猿島砲台跡
明治14年(1881年)起工、明治17年(1884年)竣工
27cm加農砲2門、24㎝加農砲4門
猿島砲台跡
3-2 海堡
海堡は、海上の人工島に砲台を備えた海上要塞で、第一海堡、第二海堡は、千葉県富津沖に、第三海堡は、水深30mの浦賀水道に建造された。第三海堡は、関東大震災で崩壊、施設の3分の1が水没してしまった。竣工後、僅か2年目のことであった。水没位置は、浦賀水道の南航航路に当たるため、航路の障害となり、平成12年(2000年)撤去(引き上げ)作業を開始、平成19年(2007年)完了した。
第三海堡は、当時の土木技術の水準を知る上で貴重な遺構である。引き揚げ作業は慎重に行われ、①探照灯、②砲台砲側庫、③観測所は夏島都市緑地に、④大型兵舎はうみかぜ公園に展示された。
浦賀水道航路と海堡位置、及び遺構の保存場所(参考資料転載)
3-2-1 第一海堡
明治14年(1881年)起工、明治23年(1890年)竣工
2016年6月(シップウオッチングクルーズ)
第一海堡2004年3月(参考資料転載)
第一海堡(Googleマップ)
3-2-2 第二海堡
明治22年(1889年)起工、大正3年(1914年)竣工
第二海堡2016年6月(シップウオッチングクルーズ)
第二海堡2004年3月(参考資料転載)
第二海堡(Googleマップ)
3-2-3 第3海堡
明治25年(1892年)起工、大正10年(1921年)竣工、関東大震災で沈下、平成12年(2000年)引き上げ着工、平成19年(2007年)引き上げ完了
関東大震災直後の第三海堡(参考資料転載)
第三海堡の構造(参考資料転載)
〇夏島都市緑地
①探照灯(夏島都市緑地)
②砲台砲側庫(夏島都市緑地)
③観測所(夏島都市緑地)
左から、③観測所、②砲台砲側庫、①探照灯
〇うみかぜ公園
④大型兵舎(うみかぜ公園)
うみかぜ公園の④大型兵舎

2018年5月15日火曜日

観音崎公園砲台跡探索

県立観音崎公園は、昭和50年に完成、70.4haの広さ(東京ドームグランドの約54倍)を持つ県下最大の公園である。公園一帯は、東京湾要塞地として明治時代から砲台が築かれ、終戦(昭和20年8月15日)まで、一般の人は立入禁止であった。現在、公園内には多くの砲台遺構が残されている。北門第四砲台跡は、海上自衛隊観音崎警備所内にあるため、見学できないが、それ以外の砲台跡は自由に見学できる。5月11日(金)~13日(日)、「明治維新150周年砲台ガイドツアー」が開催され、北門第四砲台跡が初めて一般公開された。
「砲台ガイドツアー」は大変な人気で、参加希望者が多く、残念ながら抽選漏れとなってしまった。今日は一人での砲台探索巡り、北門第四砲台跡は敷地外からの見学であったが、それ以外の全砲台跡はゆっくりと間近で見学できた。家を出たのは12時、帰宅は16時であった。
歩数:14,000歩、歩行距離:8.4㎞

「明治維新150周年砲台ガイドツアー」
読売新聞報道(2018年4月12日号)
砲台跡探索
① 火薬庫跡(パークセンター)⇒ ② 北門第四砲台跡 ⇒ ③ 南門砲台跡 ⇒ ④ 北門第一砲台跡 ⇒ ⑤ 北門第二砲台跡 ⇒ ⑥ 北門第三砲台跡 ⇒ ⑦ 大浦堡塁砲台跡 ⇒ ⑧ 腰越堡塁砲台跡 ⇒ ⑨ 三軒家砲台跡 
観音崎砲台跡マップ
①  火薬庫跡(パークセンター)
明治34年建設の砲台火薬庫。改修し、パークセンターとして利用。木骨煉瓦造り(イギリス積み)。
火薬庫跡(現在、パークセンターとして利用)
② 北門第四砲台跡(海上自衛隊観音崎警備所内)
立入禁止なので、警備所の外からの見学。
明治13年起工、明治20年竣工。4砲座編成の砲台。最初は臼砲を設置。明治34年、15サンチカノン砲4門設置。遺構として、4砲座、弾薬庫、揚弾井、全面堡塁の掩蔽部などが現存。サンチはフランス語で㎝のこと、数字は口径を表している。
海上自衛隊観音崎警備所
北門第四砲台跡
③ 南門砲台跡
明治26年竣工。12サンチ速射カノン砲4門設置。現在、「展望園地」として利用。南門砲台跡は全て撤去され、「観音崎砲台について」の説明ボードだけが置かれている。ここから、海岸沖にある「聴側所跡」が遠望できる。

南門砲台跡(観音崎砲台説明ボードがあるのみ)
12サンチ速射カノン砲(観音崎公園「砲台ガイドツアー資料」転載)
南門砲台跡(現在、展望園地)
聴側所跡(水中音波の計測)
④ 北門第一砲台跡
日本最初の洋式砲台、明治13年起工、明治17年竣工。明治27年、2砲座に24サンチカノン砲2門設置、2砲座はフランス積み煉瓦造隧道で連結。隧道の下は火薬庫であるが、現在は閉鎖。
北門第一砲台跡(2つの砲座が隧道で連結)
砲座を結ぶ隧道
北門第一砲台跡の近くに観音埼灯台がある(現在の灯台は第三代目)
関東大震災で海岸に転げ落ちた第二代目の光源台座部分
⑤ 北門第二砲台跡
第一砲台と同時期に建設。明治17年竣工。6砲座構成で、向かって右から左に下がっている「だんだん砲台」である。24サンチカノン砲6門設置。現在、4砲座が残っている。
北門第二砲台跡説明ボード
北門第二砲台跡
北門第二砲台跡隣接地に建つ東京湾海上交通センタ
⑥ 北門第三砲台跡
明治15年起工、明治17年竣工。1砲座に2門、2砲座4門編成砲台。明治12年、28サンチ榴弾砲4門設置。榴弾砲のため、胸墻は第一、第二砲座に比べて高くなっている。現在、「海の見晴台」として利用。
トンネルの先に北門第三砲台跡がある。
28サンチ榴弾砲(観音崎公園「砲台ガイドツアー資料」転載)
北門第三砲台跡
北門第三砲台跡
⑦ 大浦堡塁砲台跡
明治28年起工、明治29年竣工。9サンチカノン砲2門設置。砲台跡はほとんど残っていない。明治昭和46年、この地に「戦没船員の碑」が建てられた。毎年5月に追悼式が行われる。
大浦堡塁砲台跡(現在、戦没船員の碑が建つ)
僅かに残る大浦堡塁砲台跡
⑧ 腰越堡塁砲台跡
明治29年竣工。9サンチカノン砲2門設置。現在、「うみの子とりで」として利用。
腰越堡塁砲台跡(現在、うみの子とりで)
⑨ 三軒家砲台跡
明治27年起工、明治29年竣工。27サンチカノン砲4門と12サンチ速射カノン砲2門設置。保存状態は良好で、砲座・観測所・見張所・掩蔽部・伝声管などが残っている。
三軒家砲台跡(観音崎公園「砲台ガイドツアー資料」転載)
27サンチカノン砲(観音崎公園「砲台ガイドツアー資料」転載)
三軒家砲台跡説明ボード
三軒家砲台跡
三軒家砲台掩蔽部跡
観音崎公園・猿島の砲台跡に見られる煉瓦の積み方
煉瓦の積み方(観音崎公園「砲台ガイドツアー資料」転載)
フランス積み(観音崎公園「砲台ガイドツアー資料」転載)
イギリス積み(観音崎公園「砲台ガイドツアー資料」転載)