2018年5月8日火曜日

東京湾口灯台の変遷~燈明堂・観音埼灯台・東京マーチス~

江戸時代、浦賀には干鰯(ほしか)問屋(水揚げされた鰯を油抜きにして干し、綿花の肥料として関西方面に送り出す問屋)や、廻船問屋(港において廻船などの商船を対象に様々な仕事を行う問屋)など、多くの豪商が存在し、江戸の町にも劣らない商人を中心とした独自の賑わいのある文化が花開いていた。浦賀の干鰯問屋は、最盛期には全国の干鰯商いを独占するほどまでになっていた。当然、浦賀港への船の出入りは多くなり、船の安全を図るため、慶安元年(1648年)、幕府の命により、灯台の役目をする燈明堂が浦賀港の入口に造られた。菜種油で灯された光は、海上4海里(7.4km)を照らしたと言われている。元禄の頃からは、最盛期を迎えた浦賀の干鰯問屋が維持管理を担い、明治5年(1872年)に廃止されるまで、約220年間、一日も休まずに火を灯し、航路の安全を守り続けてきた。その後、燈明堂の役割は、我が国最初の洋式灯台である観音埼灯台へと引き継がれた。現在の燈明堂は、昭和63年(1988年)、残っていた石垣の上に、当時の外観を復元したものである。
観音埼灯台は、横須賀製鉄所首長、フランス人技師、F.L.ヴェルニーの設計により、明治元年(1868年11月1日)に起工、初点灯は、翌明治2年(1869年2月11日)であった。初代灯台は、大正11年(1922年)4月の地震で損壊、大正12年(1923)3月、2代目が建造された。然しながら、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生、2代目灯台は、僅か半年程で崩れ落ちてしまった。灯台下の海岸には、2代目灯台の光源台座が、永年の波浪に絶えて残っている。解体・撤去の際、転げ落ちたものと思われる。近々、消失の可能性が高い。保全したい貴重な文化遺産である。現在の灯台は3代目で、大正14年(1925年)6月、再建された。初代観音埼灯台の起工日である11月1日が、灯台記念日と定められ、全国の主要な灯台でイベントが開催されている。
東京湾を通行する船舶が大型化し、通行量が飛躍的に増えたため、航路・海域の安全を確保するため、昭和52年(1977年)2月、航行情報提供や航行管制の業務を行う東京湾海上交通センター(通称:東京マーチス)が、観音埼灯台の北西約0.2㎞の山頂に完成した。観音埼灯台の役割は、東京マーチスへと引き継がれ、センタースタッフが、24時間交代で、終日、船舶を監視し、誘導・管制業務を行っている。

燈明堂・観音埼灯台・東京マーチス
干鰯問屋跡・東耀稲荷・2代目灯台光源台座位置
1 燈明堂
1-1 燈明堂( 西浦賀6-9-1)
燈明堂説明板
西浦賀の燈明堂
浦賀港入口の燈明堂
浦賀水道から見た燈明堂
1-2 干鰯問屋跡(東浦賀2-2)
東浦賀干鰯問屋跡説明板
1-3 東耀稲荷(東浦賀2-6)
恵比寿・大黒天の飾り瓦、干鰯で栄えた東浦賀の繁栄ぶりが偲ばれる。
東耀稲荷説明板
東耀稲荷
東耀稲荷(恵比寿の飾り瓦)
東耀稲荷(大黒天の飾り瓦)
1-4 浦賀干鰯問屋の盛衰~鰯が天下を動かした~
平成18年2月3日~2月18日、浦賀文化センター(郷土資料館)で「浦賀干鰯問屋の隆盛~鰯が天下を動かした~」の特別企画展示会が開催された。2月4日には、横須賀開国史研究会会長・山本詔一先生の講演会「干鰯問屋物語」が実施された。
詳細は横須賀市HP参照のこと
特別展ポスター(横須賀市HP転載)
干鰯市場模型(横須賀市HP転載)
2 観音埼灯台(鴨居4-1187)
2-1 初代灯台
F.L.ヴェルニー(観音埼灯台の設計・建設)
建設中の初代観音埼灯台(横須賀市自然・人文博物館)
初代観音埼灯台(横須賀市自然・人文博物館)
2-2 2代目灯台
2代目灯台(関東大震災で倒壊、横須賀市HP)

海岸に残る2代目灯台の一部、光源台座と思われる。
近々、波浪で消失の可能性、保全したい文化遺産である。
2-3 3代目(現在)灯台
3代目(現在)観音埼灯台
燭光部分
3 東京マーチス(東京湾海上交通センター、鴨居4-1195)
東京湾海上交通センター(東京マーチス)
4 観音埼灯台と東京マーチスのツーショット
灯台めぐり遊覧船から撮影
ツーショットは、海上からでないと見られない。

0 件のコメント: