2018年5月21日月曜日

東京湾要塞(台場・砲台・海堡)

参考資料:
NPO法人アクションおっぱま/おっぱまはっけん倶楽部発行
追浜(おっぱま)の歴史遺産 見学のしおり 東京湾第三海堡遺構物語

江戸時代の末期、嘉永6年(1853年)、ペリー提督率いる黒船4隻が浦賀沖に来航した。ペリー来航以前にも、異国船が度々浦賀沖に来航している。これに驚いた幕府は、江戸湾海防のため台場を築き、異国船の侵入に備えた。明治時代になると、政府は、西欧列強国の進攻に備え、浦賀水道を囲む形で沿岸砲台や海堡からなる東京湾要塞施設を建造した。
1 幕末・鎖国時代の海防
江戸時代後期、異国船の来航が激しくなると、幕府は、海防のため江戸湾口に台場を築造した。幕府の命を受けた会津藩は、文化9年(1812年)、観音崎台場を築いた。また川越藩は、天保14年(1843年)、旗山崎台場を築いた。台場跡は残っていないが、観音崎台場は南門砲台跡(展望園地)に、旗山崎台場は走水低砲台跡(旗山崎公園)にあったものと思われる。
文政元年(1818年)、ブラザース号、異国船初の江戸湾来航
ペリー来航の35年前(横須賀市自然・人文博物館所蔵)
1-1 観音崎台場
「観音崎周辺の台場」説明板(展望園地)
展望園地(観音崎台場跡、観音崎南門砲台跡)
1-2 旗山崎台場
「走水番所・旗山崎台場跡」説明板(旗山崎公園)
旗山崎台場の様子
旗山崎公園(旗山崎台場跡、走水低砲台跡)
2 黒船の来航と品川台場の建設
嘉永6年(1853年)、ペリー提督率いる黒船が来航。幕府は11基の品川台場の建設を計画・着工した。
ペリー提督(ペリー記念館)
黒船旗艦「サスケハナ号」(ペリー記念館)
品川台場配置計画図(参考資料転載)
3 明治時代の東京湾要塞
東京湾要塞は、明治政府によって、海からの攻撃に備えるため、明治13年(1880年)より建造が開始された。東京湾周辺に、浦賀水道を囲む形で多くの砲台と海堡が造られた。
東京湾要塞配置図(参考資料転載)
3-1 東京湾口砲台跡
観音崎砲台跡、三軒家砲台跡、走水低砲台跡、千代ヶ崎砲台跡、猿島砲台跡が、保存状態良く残っている。
3-1-1 観音崎砲台跡(北門第一砲台跡)
明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工
24㎝加農砲2門
観音崎北門第一砲台跡
3-1-2 三軒家砲台跡
明治27年(1894年)起工、明治29年(1896年)竣工
27㎝加農砲4門、12㎝加農砲2門
三軒家砲台跡
3-1-3 走水低砲台跡
明治18年(1885年)起工、明治19年(1886年)竣工
27㎝加農砲4門
走水低砲台跡
3-1-4 千代ヶ崎砲台跡
明治25年(1892年)起工、明治28年(1895年)竣工
28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門、12㎝加農砲4門
千代ヶ崎砲台跡
3-1-5 猿島砲台跡
明治14年(1881年)起工、明治17年(1884年)竣工
27cm加農砲2門、24㎝加農砲4門
猿島砲台跡
3-2 海堡
海堡は、海上の人工島に砲台を備えた海上要塞で、第一海堡、第二海堡は、千葉県富津沖に、第三海堡は、水深30mの浦賀水道に建造された。第三海堡は、関東大震災で崩壊、施設の3分の1が水没してしまった。竣工後、僅か2年目のことであった。水没位置は、浦賀水道の南航航路に当たるため、航路の障害となり、平成12年(2000年)撤去(引き上げ)作業を開始、平成19年(2007年)完了した。
第三海堡は、当時の土木技術の水準を知る上で貴重な遺構である。引き揚げ作業は慎重に行われ、①探照灯、②砲台砲側庫、③観測所は夏島都市緑地に、④大型兵舎はうみかぜ公園に展示された。
浦賀水道航路と海堡位置、及び遺構の保存場所(参考資料転載)
3-2-1 第一海堡
明治14年(1881年)起工、明治23年(1890年)竣工
2016年6月(シップウオッチングクルーズ)
第一海堡2004年3月(参考資料転載)
第一海堡(Googleマップ)
3-2-2 第二海堡
明治22年(1889年)起工、大正3年(1914年)竣工
第二海堡2016年6月(シップウオッチングクルーズ)
第二海堡2004年3月(参考資料転載)
第二海堡(Googleマップ)
3-2-3 第3海堡
明治25年(1892年)起工、大正10年(1921年)竣工、関東大震災で沈下、平成12年(2000年)引き上げ着工、平成19年(2007年)引き上げ完了
関東大震災直後の第三海堡(参考資料転載)
第三海堡の構造(参考資料転載)
〇夏島都市緑地
①探照灯(夏島都市緑地)
②砲台砲側庫(夏島都市緑地)
③観測所(夏島都市緑地)
左から、③観測所、②砲台砲側庫、①探照灯
〇うみかぜ公園
④大型兵舎(うみかぜ公園)
うみかぜ公園の④大型兵舎

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