「歴史のまち・浦賀散歩」には、東浦賀コースと西浦賀コースの2通りがあります。今日は、東浦賀コースの散歩です。
マシュー・ペリー(1794-1853年)
1853年に来航した軍艦4隻
蒸気船 旗艦:サスケハナ号(全長257フィート、2,450トン、大砲6門)蒸気船 ミシシッピー号(全長225フィート、1,692トン、大砲12門)
帆 船 プリマス号(全長147フィート、989トン、大砲4門)
帆 船 サラトガ号(全長150フィート、882トン、大砲4門)
浦賀駅前、正面は浦賀ドック
歩道に埋め込まれた「咸臨丸」ボード
1 浦賀ドック
浦賀船渠(通称浦賀ドック)は、1897年(明治30年)、国産初の洋式大型軍艦「鳳凰丸」を建造した中島三郎助の偉業を称えて設立された。2003年に閉業。
世界に4か所しか現存していないレンガ積みドライドック、貴重な文化遺産
大型クレーン
浦賀ドック工場
浦賀ドックの工業用水を確保のために造られた導水坑
浦賀駅から観音崎方面へ徒歩3分、左側の山裾にある。
2 屯営跡の碑
屯営(水兵の基礎教育機関)があった場所
3 八雲神社
東浦賀一丁目の鎮守で、社は江戸時代の建物
鏝絵「向拝の龍」(石川善吉作、明治35年)
4 乗誓寺
乗誓寺の開基は、曽我兄弟の兄の子、僧・了源である。この寺の墓地には、江戸時代の干鰯問屋の大店の墓がずらりと並んでいる。
東浦賀には多くの干鰯問屋が存在した。
干鰯(ほしか)問屋:江戸時代、浦賀に水揚げされた鰯を油抜きにして干し、干鰯肥料として関西方面に送り出していた問屋。綿花の肥料として使われた。
東浦賀の干鰯問屋は、最盛期には全国の干鰯商いを独占する程になったが、江戸の商人が参入し始めると、次第にその勢力を失う結果となった。
(横須賀市ホームページより参照)
5 顕正寺
浦賀奉行所与力・同心や咸臨丸乗組員の墓がある。
6 東耀稲荷
1782年創建
天井絵
恵比寿の飾り瓦
大黒天の飾り瓦
浦賀は商人の街として繁栄していたことが偲ばれる。
7 専福寺
文化3年(1806年)頃、小林一茶が訪れている。
8 東林寺
浦賀奉行所与力、中島三郎助((文政4年(1821年)-明治2年(1869年))親子の墓がある。
幕末、中島三郎助が中心となり建造した、国産初の洋式大型軍艦「鳳凰丸」
文化6年(1809年)、横綱「雷電」が東林寺境内で大相撲を奉納した。
9 法幢寺
浦賀地域最大の阿弥陀三尊像が安置されている。裏山は、浦賀城の一郭であった。近くに、按針屋敷があったと言い伝えられている。
10 東叶神社
東叶神社、浦賀港の対岸に西叶神社がある。
東叶神社の狛犬は、どちらも口を閉じている。一方、対岸の西叶神社の狛犬は、どちらも口を開いている。東叶神社と西叶神社の東西で、1対の阿吽像の狛犬となっている。
勝海舟が断食修業の際に使用した井戸(社務所裏)
裏山の明神山に通じる拝殿脇から中段までの石段(恵仁志坂)
中断から明神山頂上までの石段(産霊坂、むすび坂)
恵仁志坂と産霊坂で合計223段、縁結びの坂となっている。
勝海舟(文政6年(1823年)-明治32年(1899年))
勝海舟断食之跡(明神山頂上)
咸臨丸
安政7年1月19日(1860年2月10日)、浦賀港を出港、37日間の航海の後、サンフランシスコの湾頭に到着、日本で初めて太平洋を横断した軍艦である。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎などが乗艦した。
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