嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊(黒船)が、浦賀沖に初来航した。その時、浦賀奉行所は、2人の奉行(浦賀在勤:戸田氏栄、江戸在府:井戸弘道)、14騎の与力(中島三郎助、香山栄左衛門・・・)、74人の同心、2人の通詞(堀達之介、立石得十郎)の陣容であった。ペリー艦隊との初交渉に臨んだのは、与力・中島三郎助であった。通詞・堀達之介を伴い、「副奉行」と偽って旗艦「サスケハナ号」に乗艦した。幕府高官との交渉を望むペリー側に対し、今度は与力・香山栄左衛門が、2人の通詞・堀達之介と立石得十郎を伴い、自らを「浦賀奉行である」と偽って交渉に当たった。いずれも、臨機応変な対応力であった。
浦賀奉行所は、2020年、開所300周年を迎える。現在、奉行所を取り囲む堀の石垣と表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことはできない。「浦賀奉行所開所300周年」を迎えるに当たり、「浦賀奉行所復元協議会」が発足した。早期の復元が待ち遠しい。
浦賀奉行所は、2020年、開所300周年を迎える。現在、奉行所を取り囲む堀の石垣と表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことはできない。「浦賀奉行所開所300周年」を迎えるに当たり、「浦賀奉行所復元協議会」が発足した。早期の復元が待ち遠しい。
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