京急本線の終着駅である浦賀駅の階段を下りると、浦賀ドックの広大な跡地が目前に迫る。平成15年(2003)に閉鎖されるまで、一世紀以上にわたって1000隻にのぼる船舶・艦船を造り続けてきた造船所跡である。日本丸、海王丸を初め、青函連絡船・大型タンカー・自動車運搬船・護衛艦等多くの船がこの浦賀ドックで造られた。
京急浦賀駅
京急浦賀駅前
横須賀風物100選立看板
昭和五十二年市制施行七十記念
横須賀風物百選
浦賀造船所
浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。
創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。
この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。
そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技
術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。
明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しました
この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約一千隻にのぼります。現在もなお技術革新の騎手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もなお地元市民に基盤を置いています。
石造りドック跡
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