読売新聞地域面(2016年12月18日)に、「ラストサムライ・中島三郎助 国産初軍艦建造に尽力」の記事と、「浦賀奉行所 復元目指す」の記事が、同時に掲載された。
嘉永6年(1853年)、浦賀沖にペリー艦隊が来航した(黒船来航)。浦賀奉行所の与力だった中島三郎助{文政4年(1821年)-明治2年(1869年)}は、当時34歳だったが、大胆にも「副奉行」と称して旗艦(サスケハナ号)に小舟で乗り込み、応対に当たると共に、船体構造、搭載砲、蒸気機関などを入念に調査した。ペリーの帰国後、幕府に上申した意見書では、軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張した。嘉永7年(1854年)、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を製造した。戊辰戦争(1868年-1869年)の最後の戦いとなった箱館戦争において、終戦の2日前に戦死した(享年49歳)。中村三郎助は、「幕末」という大激動期の“始まり”と、“終わり”に居合わせた横須賀市とゆかりの深い「ラストサムライ」である。
浦賀奉行所跡は、西浦賀に在る。2020年(東京オリンピック開催年)には、開設300年を迎える。現在、浦賀奉行所の復元を目指す署名や、募金活動が展開されている。一刻も早い実現が待ち望まれる。
1 読売新聞記事
「ラストサムライ・中島三郎助 国産初軍艦建造に尽力」
中島三郎助肖像画(浦賀コミュニティーセンター分館)
鳳凰丸模型船(浦賀コミュニティーセンター分館)
中島三郎助鎮魂碑(愛宕山公園)
中島三郎助説明板(愛宕山公園)
読売新聞より転載(2016年12月18日)
浦賀奉行所模型(浦賀コミュニティーセンター分館)
浦賀奉行所跡(西浦賀)
現在、住友重機械工業社宅が残っている。来年には解体作業が始まる予定。
市では、無償譲渡を要望中。
浦賀奉行所外堀跡(西浦賀)
0 件のコメント:
コメントを投稿