2017年4月8日土曜日

横須賀明細弌覧圖(横須賀造船所と明治時代の横須賀)

横須賀製鉄所(造船所)は、平成27年(2015年)に創設150周年を迎えた。現在の米海軍横須賀基地周辺にあった。横須賀製鉄所は、幕府が雇ったフランス人枝師、ヴェルニーを中心として、慶応元年(1865年)に建設が始まった。明治4年(1871年)には、名称を横須賀造船所と改めた。
明治10年代の横須賀造船所は、欧米先進国の大造船所にも負けない三基のドライドックと五ヶ所の船台を備え、構内には鋳造所や錬鉄所の各種エ場群が立ち並び、スチームハンマや旋盤の最新加工機械などが導入された。欧米先進国を目標に、日本の近代化を進めていた明治政府にとって、横須賀造船所は国民に産業の近代化を宣伝できる素晴らしいモデルエ場だった。そのため、軍事上、重要施設ではあったが、簡単な手続きで見学が許された。 横須賀造船所は、多くの人々が訪ねる観光名所、現在で言う一大テーマパークとなった。トヨタグループの創始者、豊田佐吉氏も見学に訪れたと言われている。
横須賀明細弌覧圖は、明治12年から明治39年まで刊行された当時の観光マップであり、軍港とまちの発展の様子を知ることができる。横須賀造船所の見学に訪れた人々は、観光案内図として、また土産物として買い求めた。
明治23年版の横須賀明細弌覧圖には、次の様に記されている。
「人々の観光の便を計るため、汽車は毎日7便、その他数隻の汽船が東京と横須賀の間を往復している。客舎は大厦高閣(大きい、高い建物)である。街衢(街道)の左右には、甍を列ねて割烹店や妓楼があり、壮麗清潔で、日夜絃歌の声が絶えない。特に、山水の眺望は絶景で、夏季には避暑のため来遊して、風光を愛翫する雅客も多い」
また最後には、「横須賀造船所の此の地は、その昔、人家が僅か30余戸に過ぎない小漁村であったが、造船所が建設されるや否や、僅々10余年で盛隆の小都会となり、実に驚くべき開明の進歩である」と結んでいる。
現在、「横須賀港一覧繪圖」「横須賀明細弌覧圖」など、9版が確認されている。平成28年4月、日本遺産に認定された。

1 横須賀港一覽繪圖(明治12年版)
横須賀市内近代化遺産総合専門調査報告書(2003年3月)
横須賀自然・人文博物館発行より転載

2 横須賀明細弌覽圖(明治18年版)
横須賀市内近代化遺産総合専門調査報告書(2003年3月)
横須賀自然・人文博物館発行より転載

3 横須賀明細弌覽圖(明治18年版)
3-1 全体図(建物・構造物など記号①~⑳入り)
横須賀造船所散歩
横須賀市開国研究会発行パンフレットより転載

3-2 建物・構造物①~⑳説明文

4 横須賀明細弌覽圖(明治23年版)
4-1 全体図(横須賀線の記載有り)
時代統合情報システムHPより転載

4-2 弌覽圖の上部記載文
「カタカナ」は「ひらがな」に変換
横須賀港は 神奈川懸下相模國 三浦郡に属す一港にして 東京を距てる海上十四里 横浜港の南にあり 戸数概ね四千戸 港内宏廣 四面皆山を帯び 湾内水深く 大艦巨船 常に幅湊して帆檣波上に林立し 解纜投錨 時として絶ることなし 其繁盛なる遠く諸港の及ぶ所に非ず 就中 港内の美観とする者は 造船所の構造にて 船渠及諸機械の運轉実に驚くべし故に 各人来遊の便を計り 滊車は毎日七回宛 その他は数艘の滊船常に東横の間を来住し 客舎は大厦高閣を築き 街衢の左右に甍を列ぬ 割烹店あり 妓楼あり 工造は都て壮麗清潔にて 日夜絃歌の聲を絶たず 特に山水の眺望佳なるが故 夏時は暑を避ちて 来遊し 風光を愛翫する雅客も又多しとかや仰も 此の港内に造船所の設立ありしは 慶應元年にて 幕府佛人ウエルニー氏を雇ひ以て 造船所設立の地をとせしむ 然るに 此港たる天然の良港にして 水底至って深く 地質も該の擧に適するか故 此の地をと定して 造船所建造の工事を起こし後 慶應三年始めて 第一号船渠
トックとは艦船の水線下を損傷せし時 此の渠内に乗り入れ 水扉を閉ち 喞筒を以て 渠水を汲干し 船を修復する所にて 甲乙丙の三個あり 甲は長さ七十七間 口十五間四 乙は六十四間五 口十三間 丙は四十四間 口八間の船を容るゝなり
の工事を起し 明治四年に至って竣工す 同六年 第二号船渠に着手し 同七年成功す 又明治十三年より 第三号船渠の工事を起せり 同十七年に出来上る 是より先き 慶應二年製鋼所を建設し 明治元年鑄造所 煉銕所等を設立せり
此他 造船所諸部の説及び諸機械の細啚名称 機械運転の妙用細説等を知るには 幣家出版の機械一覧表購求 一覧せられよ 銅板にて明細なり
以上の事業は 多々佛人の管理にて成功せし者なるが 三四年前より全く我が國人のみにて 巨艦大船及び具備の諸機械を製作す 然るに該の製毫も歐米の品に異ならずと方 今該造船所製造物の盛大なることは 亜細亜州中に第一なりと 又船渠の堅牢なる五大州に冠たると云
昔時は 此地人家纔か三十余戸に過ぎず 海隅一小の漁村 今の元町と称する所のみなりと なりしも 一たび造船所の設けありてより 僅々十余年の今日に至りて かく隆盛の小都會となりしは 實に驚く可く開明の進歩にぞある
明治廿三年七月
墨流 柯花漫記

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