2017年12月2日土曜日

鎌倉大仏殿、明応地震津波で流失か?

12月2日(土)、ヨコスカ・ベイサイド・ポケットで、三浦一族研究会主催の講演会があり、聴講してきた。
演題:鎌倉・三浦半島の歴史地震
講師:浪川幹夫氏(鎌倉市文化財課学芸員)
時間:14:00~16:15
講演の前には、横須賀民謡連盟による民謡も披露された。
2011年(平成23年)3月11日(金曜日)午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が勃発した。観測史上最大の地震(マグニチュード9.0)で、想定外の巨大津波が発生、東日本各地は未曾有の地震災害に見舞われた。
この東日本大震災と、それに伴う巨大津波を受けて、神奈川県では、独自に津波の高さを試算した。その結果、同県鎌倉市での津波の高さは、「慶長型地震」(1605年)では14.4m、「明応型地震」(1495年)では12mに達し、大仏殿から鶴岡八幡宮まで丸飲みされる可能性があることが判明した。この発表によって、鎌倉大仏殿は、明応地震による津波で流失したとする風説が一気に広まっていった。
講演では、この根拠となった古文書、「鎌倉大日記」が示された。この日記には、「明応四乙卯八月十五日、大地震、 洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」と記されている。しかしながら、これを打消すような「重要参考資料」も示された。明応地震(1495年)が発生する9年前の1486年、鎌倉を訪れた禅僧万里集九は、「鎌倉大仏は、堂宇がなく、露座のままであった。」と、「梅花無盡蔵」に記している。
これが事実であるとするならば、1495年の明応地震で流失したとされる大仏殿は、明応地震が発生した時点では、既に存在していなかったことになる。
「鎌倉の大仏殿、明応地震津波で流失か?」、奇々怪々、深まる謎、興味の尽きない楽しい講演会であった。

1 会場
ヨコスカ・ベイサイド・ポケット

講演案内板

2 講演会
2.1 三浦一族研究会、会長挨拶
会長 伊東一美氏

2.2 講演会一部 民謡披露(横須賀民謡連盟)
ダンチョネ節

三味線コラボ

津軽あいや節

太鼓と三味線のコラボ

2.3 講演会二部 講演「鎌倉・三浦半島の歴史地震」 
講師 浪川幹夫氏(鎌倉市文化財課学芸員)

津波で大仏殿が流された??
(浪川幹夫氏、講演会スライド写真転載)

露座の鎌倉大仏
(浪川幹夫氏、講演会スライド写真転載)

左肩の凹み(大仏殿崩壊時によるものか?)
(浪川幹夫氏、講演会スライド写真転載)

1495年の「明応地震」記録(御湯殿の上の日記・鎌倉大日記)
「水勢大仏殿破堂舎屋」とある。
浪川幹夫氏、講演会スライド写真転載)

1486年の「梅花無盡蔵」記事
逢銅大佛。々長七八丈。腹中空洞。應容數百人。背後有穴。脱鞋入腹。僉云。此中往々博奕者白晝呼五白之處也。無堂宇。而露坐突兀。
博打をする者が白昼から大仏の中に入っていた。堂宇はなく、露座のままであった。
(浪川幹夫氏、講演会スライド写真転載)

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