読売新聞報道(2017年12月10日、朝刊号)
浦賀コミュニティーセンター分館(郷土資料館)
浦賀奉行所展示室
浦賀奉行所模型(浦賀奉行所展示室)
浦賀奉行所間取模型(浦賀奉行所展示室)
浦賀奉行所所在地(川間)
浦賀奉行所跡(社員寮解体前、2017.4.19撮影)
浦賀奉行所跡(社員寮解体前、2017.6.4撮影)
大六天榊神社から望む
更地となった浦賀奉行所跡(社員寮解体終了、2017.12.21撮影)
更地となった浦賀奉行所跡(社員寮解体終了、2017.12.21撮影)
大六天榊神社から望む
船番所所在地(蛇畠)
船番所跡(現在、よこすか浦賀病院)
「奉行所まつり」で、どうして浦賀に奉行所が置かれるようになったのか?その謎解きの基調講演が開催された。
日 時 10月28日(土) 13:30~15:00
場 所 浦賀コミュニティーセンター
講 話 浦賀奉行所と浦賀の人々
講 師 山本詔一先生(横須賀開国史研究会会長)
内 容
以下は、当日の配布資料の転載である。
「浦賀奉行所と浦賀の人々」
1 奉行所設置反対運動
享保5年(1720)4月、下田奉行・堀隠岐守利雄と御船手奉行の向井将監正員(まさかず)は、江戸幕府の命を受け、下田奉行所移転問題に取り組んでいた。
下田奉行所の移転の正式理由は、「下田湊は風が強く、波が高い時などは、湊ヘは入り難く、例え入れても湊口に大きな岩礁があり、ここに廻船が乗り上げるなどの事故があり、湊としての安全性に欠ける」という声に答えたものであった。
しかし、本当のところは、江戸幕府が開府して100年を超え、江戸への物資流入は関西ばかりでなく、生産力を増した東北方面からのものも増え、江戸経済を流通面でコントロールできる場所を確保することの必要性にかられた下田奉行所移転問題であった。移転担当の二人の奉行は、堀が陸上から、向井は海上から伊豆半島の東海岸から相模湾沿岸、三浦半島各地の湊の調査を行った。
4年5月、両奉行と与力・松村恵左衛門、同心の中田浅右衛門らは、東浦賀の名主石井三郎兵衛宅や、干鰯問屋の木屋市兵衛宅を旅宿にして、移転候補地の協議をしていた。
その結果は、 海陸ともに浦賀を第一候補地とすることにした。
この時代の浦賀は、東浦賀の干鰯間屋の営業成績にやや陰りがでてきたものの、商業港としての実績を十分に持っていた。特に、候補地になった東浦賀は、江戸、小田原に次ぐ町場を形成していた。
早速、実測が始まり、具体的にどこに奉行所を置き、船の荷物や乗組員の検査をする船番所はどこに、奉行所勤めの役人の官舎である役宅をここに、という形で絵図が記されていった。
このことを知って驚いた東浦賀の住民たちは、すぐさま移転反対運動を開始し、「御用地御免願」を提出した。そこには、「東浦賀村は村高六十石あまりの小さな村であり、こんな狭い村で御用地を取り上げられるのは迷惑な話である。
そうでなくとも近年、村人が頼りにしている干鰯問屋の営業成績が芳しくない状況のなかで、千鰯の売買場所まで取り上げられたのでは、間屋はいうに及ばず、干鰯問屋と深い関わりを持つ東浦賀の1,500人の村人の生業が立たず、潰れてしまい、運上を払うこともできなくなります。例え代替地を貰えたとしても、勝手が違うので商売が今までとおりいくとは考えられません」と、激しい抗議文を書いた。
村人の抗議活動は書面だけでなく、伊勢原の大山不動に護摩を焚いてもらい、地元の叶明神にも祈祷をして、まるで悪病を退散させるように、奉行所の移転に反対した。
こうした抗議を受けた幕府は、移転計画の青写真を描いた代官の遠藤七左衛門を罷免し、代わりに河原清兵衛を充て、8月中に御用地を再調査し、9月半ばになって、漸く現在奉行所跡地になっている西浦賀の字名・川間(西浦賀5丁目)の地に奉行所を建て、船番所は蛇畑(現在の西浦賀1丁目)に確定した。
2 奉行所の引っ越し
享保5年9月、西浦賀の船番所建設予定地に住んでいた19所帯の立ち退きが始まった。10月になると、この工事を請け負った居木屋市郎左衛門や、下田の大工棟梁の石丸八右衛門らが浦賀に着き、いよいよ工事が開始された。この工事にどれぐらいの人が携わったのか分からないが、12月中旬には下田から役人の引っ越しが始まるので、実質2ヶ月あまりで、奉行所、船番所、役人たちの住居をほぼ完成させた。これは驚異的な早さであった。
一方、浦賀へ引っ越ししてくることになった下田奉行所の役人たちへ、奉行から通達が出された。そこには、「浦賀に移ることになったが、これも公儀様からの命令であるので、職務に差し支えのないようにしなさい。また役人たちが困窮していることも知っており、幕府にも現状の生活についての話はしてあるが、この機会に増収になるかどうかわからない。どちらにせよ、速やかに引っ越しができように心がけておきなさい」というものであった。
さらに通達は、「自分自身は勿論、召使いに至るまで、喧嘩、口論をしないように。現在住んでいる建物だけでなく、庭木一本も切り取り持ち去らぬよう。また、火の用心は念入りにしなさい。下田の町で借金の返済ができていない者、買い物の代金が支払いできていない者は、できる限り返済するように努力をしなさい。それでもどうしてもできない場合は、双方でよく協議をして示談にしてもらいなさい」と、下田を旅立つに当たっての心構えを記している。最後の一条をみると、役人たちが、下田の町にかなりの借金やツケがあったことを物語っており、浦賀へ来るまでにどのくらい返済できたのであろうか。
役人たちが引っ越しの準備に入った頃、老中・戸田山城守のところヘ、ー通の 歎願書が提出された。歎願書を提出したのは、下田で船の乗組員や荷物の検査業務を行なっていた「廻船間屋」と呼ばれる人たちからであった。
その歎願書には、「私たちは、約100年前から船改めの業務をはじめ、下田番所の様々な仕事を手伝ってきました。それが突然の移転と聞き驚いております。このままですと、私たちの仕事はなくなり、生活も困窮いたします。しかし、煩雑な船改めを浦賀の新規の間屋だけでできるでしょうか。もし私たちもいっしょに転勤できたなら、この上もない幸せですし、お役にたてることと存じます」というものであった。
この歎願は認められ、下田から厳選された62人の間屋が浦賀へ奉行所と共にやってきた。
3 船改め開始
3 船改め開始
享保5年(1720)12月中に、奉行所の役人と船改めを担当する廻船問屋の引っ越しが終わり、いよいよ浦賀奉行所が管轄する船改めが始まる事となった。
これに先駆けて、享保6年1月、幕府から江戸湾を航行する船に宛てた「触書」が出された。この内容は、「2月1日以降、江戸湾を出入りする船は全て浦賀で船改めを受けること」というものであった。今までも下田で船改めを受けていた下り船(江戸時代は京都へ行くことが上りであったので、大阪などから江戸へ向う船は下り船といった)は、検査を受ける場所が下田から浦賀へ変わっただけであったが、相模湾の湊から江戸へ向かう船や東北から荷を積んだ船にとっては初めて受ける検査であった。
享保6年2月1日、浦賀での船改めが始まった。この日、麻の裃を着けた初代の浦賀奉行・堀隠岐守利雄は、六つ半時ごろ(午前7時)に西浦賀蛇畠町(現・よこすか浦賀病院)に新設された船番所に出仕し、お昼すぎまで業務の様子を視察していた。
この日、船番所に勤務したのは、与力が田中吉左衛門、樋田仲右衛門、合原程右衛門、渡部喜右衛門と、同心は組頭の横溝市郎右衛門ほか数名が当たった。
この日は初日であったので、船番所の役人も増員されていたが、通常は与力2名と同心6名が朝8時から翌朝の8時までの24時間勤務であった。
また、実際に船の検査に当たる足軽役の下田と東西浦賀の廻船間屋も勤務につき、船番所の敷地に新設された会所には下田間屋から1人、東西の浦賀からも1人が会所番をした。
会所では、船番所からの指令の伝達、水主の検閲、便船人(同乗者)の検査済み証文の発行、揚げ荷物と送り荷物の調査、伊豆七島からの船の検査などから、番所、船蔵の掃除、非常時の人足提供と炊き出し、座礁した船の連絡、手形に裏書する印鑑の保存などの廻船間屋がやるべき仕事が書き出されていた。
享保6年2月1日、浦賀での船改めが始まった。この日、麻の裃を着けた初代の浦賀奉行・堀隠岐守利雄は、六つ半時ごろ(午前7時)に西浦賀蛇畠町(現・よこすか浦賀病院)に新設された船番所に出仕し、お昼すぎまで業務の様子を視察していた。
この日、船番所に勤務したのは、与力が田中吉左衛門、樋田仲右衛門、合原程右衛門、渡部喜右衛門と、同心は組頭の横溝市郎右衛門ほか数名が当たった。
この日は初日であったので、船番所の役人も増員されていたが、通常は与力2名と同心6名が朝8時から翌朝の8時までの24時間勤務であった。
また、実際に船の検査に当たる足軽役の下田と東西浦賀の廻船間屋も勤務につき、船番所の敷地に新設された会所には下田間屋から1人、東西の浦賀からも1人が会所番をした。
会所では、船番所からの指令の伝達、水主の検閲、便船人(同乗者)の検査済み証文の発行、揚げ荷物と送り荷物の調査、伊豆七島からの船の検査などから、番所、船蔵の掃除、非常時の人足提供と炊き出し、座礁した船の連絡、手形に裏書する印鑑の保存などの廻船間屋がやるべき仕事が書き出されていた。
4 石銭と問料
享保6年に始まった浦賀での船改めは、下田奉行所時代からこの仕事をしていた問屋が63軒、西浦賀から22軒、東浦賀はすべて干嬌間屋で20軒 の105軒が実務についた。浦賀では、この間屋を廻船問屋と呼び、また三方間屋と称した。
浦賀での船改めで、三方問屋が特に念入りな検査をした品物は、米、塩、酒、業種油、魚油、しょうゆ、味噌、薪、炭、木綿、ほうれい綿(奈良の法令地方でできた綿のことを称していたが、ここでは古綿のこと)の生活必需品、11品日であった。これらの物は浦賀で統計をとり、初めのころは半年に一度、後になると3ヶ月に一度、江戸へ報告する義務があった。
浦賀での船改めで、三方問屋が特に念入りな検査をした品物は、米、塩、酒、業種油、魚油、しょうゆ、味噌、薪、炭、木綿、ほうれい綿(奈良の法令地方でできた綿のことを称していたが、ここでは古綿のこと)の生活必需品、11品日であった。これらの物は浦賀で統計をとり、初めのころは半年に一度、後になると3ヶ月に一度、江戸へ報告する義務があった。
まさにこれが、奉行所を浦賀へ移転させた本当の理由であり、江戸へ出入りする物資に目を光らせ、物価安定の指標をつくる政策の一環であった。陸上交通での物資の流通がほとんどない江戸時代には、浦賀での船改めは大きな効果が期待できた。
船改めを受ける船には、石銭(こくせん)といって、船の大きさに応じて十石積みの船で銭3文、百石積なら30文というように通行税がかけられた。ここで集めた石銭は、三浦半島の先端にある城ケ島の篝屋(かがりや)と伊勢菅島に幕府が建てた篝屋の薪代に当てられた。また、乗組員(江戸時代には水主と呼ばれた)には、問料(といりょう)という通行税がかけられた。これは、水主一人に対して銀1匁8分が徴収された。この問料が廻船間屋の収入であった。銀は50匁から60匁で1両であったから、千石船のように水主が14、5人乗りの船が江戸へ入ると、石銭も問料も往復徴収したので、石銭が600文、問料が約1両かかる計算になる。
遠方からの船は、1年に一、二度であるからよいが、江戸周辺の船には負担になったので、享保7年、伊豆、相模、安房、上総、下総、常陸、武蔵の船は、年に3度分の石銭と問料を支払えば、後は徴収しない「触書」が出された。
幕府は、江戸へ出入りする全ての船が検査を受けることを命じたが、生魚を積んだ船だけは、魚の鮮度を保つため沖を直通してもよい事になった。この生魚船は、江戸の魚河岸の間屋が認めた旗を立て、浦賀奉行所が発行した鑑札を所持していることが条件であった。
しかも、生魚船は江戸からの帰りも、何も積んでいない空船の状態であれば沖を直通できた。
こうした例外を認めると、生魚を積んでいなくても沖を直通する船が現れるようになった。この情報をキャッチした奉行所は、パトロールのための船、番船を出して取り締まりに当たったが、この番船までもが買収されてしまうこともあり、番船に番船が出動することもあった。
5 奉行所の機構と職制
浦賀奉行所には、浦賀御役所と呼ばれていた奉行所、船改めを行なう海の関所である御番所、江戸にある奉行の私邸である江戸御役所に、奉行所から与力・同心各2名が勤務、三浦・三崎の御役宅に与カ1名、同心2名が勤務、さらに伊豆下田に御用所があり、同心1名が勤めていた。三崎と下田は難船処理を主な業務としていた。
下田から移転して開かれた奉行所には、長官である奉行が1名、担当セクシ
ョンの責任者である与力が10騎(与力は馬に乗ることを許されていたので「騎」と数える)、現在の会社であれば係長クラスの同心が50名いた。
奉行は初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで52名が歴任した。奉行には用人と呼ばれる秘書官がおり、他に身辺警護をする者の目付がいた。これらの者は全て奉行の家来であったので、奉行所からの給与は出ず、奉行が賄った。奉行所が浦賀に移った時から100年間は一人奉行制であり、ほぼ私邸のある江戸におり、浦賀には用人が奉行の代理をしていた。文政2年(1819)2月から2人制になり、浦賀に詰めることを在勤といい、江戸の私邸にいて幕府と連絡をとる奉行を在府といった。奉行は年番制であり、途中で転出したときには、新しい奉行が残任期間を担当した。
与力・同心は「抱席(かかえせき)」といって一代限りの雇いであったので、正式には、跡継ぎはいなかったが、父が老齢で引退(暇乞い)をすると、「番代わり」と言って息子が親戚や同僚などの推薦をもらい、奉行に願い出て許可をもらう仕組みになっていた。それまでには、見習いとして奉行所に出仕し、いつでも番代わりできるように努めていた。浦賀奉行所の役人は、船が操れることが絶対条件であった。
与力は地方掛と吟味掛に分れていたが、異国船が姿を見せるようになると応接掛や武器掛など分担が増えた。
同心も職務が分担されており、序列で組頭・組頭見習・ 地方掛・日付役・御道具下預役・御船唄役・封印役・定廻り・平同心等に分かれていた。老中など幕府の要職についている者が来ると船で巡見が行われて、時には自慢の喉を披露した。御船唄役や難船した船に残っている荷物を管理する封印役などは、浦賀奉行所独特の役職であった。
与力も同心も奉行所が移されてから100年間給与のベースアップがなく、与力が4斗入り俵で70俵、 同心は3斗5升入り俵で20俵と薄給であった。しかし、100年間もベースアップがなかったのには理由があった。浦賀には、「御組揚げ荷物」というものがあった。これは、廻船が御組(与力と同心)のために置いていく荷物であり、これを代金も払わずに貰ってしまえば賄賂になってしまうので、両組が話し合い自分たちで勝手に値段をつけて引き取ることが行われていた。
さすがに、お米は市販の価格の1割から3割引きぐらいであったが、薪や炭になると8割から9割引きで引き取った。廻船にしてみれば、最初から差し上げたものであったのに、代金が貰えることで何となく徳をしたように思えた。これを幕府は黙認していたので、ベースアップがなくても、強く抗議もできなかった。
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