家を出たのは9:00、集合場所の京急汐入駅には9:20に到着。今日は、午後から雨との予報。そのためか、15名のキャンセルがあり、参加者は、12名に留まりました。6名ずつ2班に別れ、9:30に出発、途中、旧鎮守府長官邸(現在の田戸台分庁舎)で昼食、終了は13:45、中央Yデッキで解散となりました。
心配された雨も降らず、予定通り全コースを回ることができました。経験豊富なベテランガイドに伴われての楽しいツアーでした。昼食は、旧鎮守府長官邸ダイニングルームで摂ることができました。滅多にない、貴重な体験日となりました。
解散後、途中立ち寄れなかった「向山行在所跡」、「禁廷水の碑」、「諏訪神社」、「海軍機関学校の碑」を一人で訪ね、見学してきました。帰宅時間は15:30。所要時間は6時間半、歩数は約21,200歩、歩行距離は約12㎞でした。
1 コース
汐入駅前(集合)~旧海軍下士官集会所跡~ベース正面~三笠公園~ポートマーケット~共済病院~中央公園~文化会館~聖徳寺~田戸台分庁舎(昼食)~赤門~料亭小松~おりょう終焉の地~横須賀中央駅(Yデッキにて解散)
解散後、Yデッキ~向山行在所跡~禁廷水の碑~諏訪神社~海軍機関学校の碑~自宅
2 各見学場所
2.1 汐入駅(集合場所)
2.3 ドブ板通り
2.4 向山行在所跡
明治天皇が横須賀に行幸された際、宿泊などに利用した建物。.洋風木造2階建、海軍兵学校分校教師館としても利用された。この跡地に海軍大将、加藤寛治書による「聖蹟」記念碑が建っている。行幸の際に使用した水は、ヨゼフ病院裏の井戸から運んだとも言われ 、「禁廷水」の碑がある。
加藤寛治:明治3年(1870~昭和14年(1939)
福井出身、明治大正昭和の海軍軍人。海軍兵学校18期首席卒業、 戦艦三笠の砲術長。 昭和3年連合艦隊司令長官。 横須賀鎮守府長官。
2.5 諏訪神社
2.6 聖ヨゼフ病院
写真説明文:横須賀市観光協会配布資料より転載
2.1 汐入駅(集合場所)
昭和5年(1980)4月、「横須賀軍港駅」と名付けられ営業開始。昭和15年 (1940)10月、「横須賀汐留」となり、昭和36年(1961)、現在の「汐入」と改められた。元は、この場所には、明治11年(1878)、三浦郡役所が設けられた。初代郡長は、小川茂周 (しげちか)である。
2.2 旧海軍下士官兵集会所跡
2.2 旧海軍下士官兵集会所跡
明治35年(1902)に建てられ震災で崩壊し、昭和13年(1988)に再建。敷地約9千㎡鉄筋コンクリート3階建、劇場は約3千㎡、当時は東洋一の劇場。戦後米国海軍EMクラブ(Enlisted Men’s Club)として昭和47年迄使用、ジャズバンド・ジャ ズ歌手のメッカとなった。
2.3 ドブ板通り
2.4 向山行在所跡
明治天皇が横須賀に行幸された際、宿泊などに利用した建物。.洋風木造2階建、海軍兵学校分校教師館としても利用された。この跡地に海軍大将、加藤寛治書による「聖蹟」記念碑が建っている。行幸の際に使用した水は、ヨゼフ病院裏の井戸から運んだとも言われ 、「禁廷水」の碑がある。
加藤寛治:明治3年(1870~昭和14年(1939)
福井出身、明治大正昭和の海軍軍人。海軍兵学校18期首席卒業、 戦艦三笠の砲術長。 昭和3年連合艦隊司令長官。 横須賀鎮守府長官。
2.5 諏訪神社
康暦2年(1380)に、三浦貞宗が信州諏訪大明神を勧請したと伝えている。祭紳は建御名方命、事代主命で慶長11年(1606)に代官長谷川三郎兵衛により再建。三浦郡の総鎮守であったと言れている。
2.6 聖ヨゼフ病院
元は市役所、諏訪尋常高等小学校があったところで、震災後移転した跡地に昭和14年(1939)海軍下士官兵、その家族の病院として横須賀海仁会病院として開院した。戦後デッカー提督によって聖ヨゼフ病院として今にある。
2.7 ベース正面
昭和20年(1945)の終戦まで横須賀鎮守府や海軍工廠の正門があり、その奥の丘に明治17年(1884)12月、東海鎮守府を移した横須賀鎮守府(大正15年建造)や、慶応元年(1865)9月27日に鍬入れ式をあげて建設した横須賀製鉄所の後身である海軍工廠本庁舎などがあった。現在は米海軍第七艦隊極東司令部や、在日米海軍横須賀基地司令部が置かれている。
2.8 海軍機関学校の碑
2.9 三笠公園
2.10 記念艦三笠
三笠艦は、明治35年(1902)にイギリスで建造された当時世界一級の戦艦。明治38年(1905)、日本海海戦では、東郷平人郎司令長官指揮する連合艦隊の旗艦として、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。世界海戦史上で例を見ない大勝利であった。現在は、世界の三大記念艦(英国ヴィクトリー号、米国コンスティチューション号)の一つとして保存されている。
付記:「皇国興廃在此一戦」石碑
昭和43年(1968)6月1日に除幕された。彫刻家で文化功労者、清水多嘉示(たかし)氏の制作銅像側にある石碑は、元海軍大将、長谷川清書とある。
東郷平人郎:弘化4年(1848)~昭和9年(1934)
鹿児島出身、薩英戦争、成辰戦争に参加後、英国に留学。日本連合艦隊の司令長官でバルチック艦隊を破り、日本に勝利をもたらす。戦後、東宮御学問所総裁に任命される。
長谷川清:明治16年(1883)~昭和45年(1970)
福井出身、明治36年(1903)に海軍兵学校を卒業し戦艦三笠で日本海海戦に参加。昭和9年海軍中将となって第3艦隊司令長官、横須賀鎮守府長官を経て、昭和14年(1939)海軍大将に進級、現役のまま台湾総督に就任。
2.11 共済病院(旧海軍職工共済会医院)
デッカー司令官胸像:ベントン・ウイーバー・デッカー大佐は、昭和21年(1946)に基地司令官として着任、以来4年間、市の経済、教育、文化の復興に功績があった。これを頭彰して、川村吾蔵作の胸像が建立された。
2.13 文化会館(旧横須賀海軍病院跡地)
2.15 田戸台分庁舎(旧横須賀鎮守府長官邸)
建物は、大正2年(1913)竣工の本造平屋建て(一部 2階建て)、 敷地面積 10,248㎡ 、本館延面積 633㎡、洋館の応接部と和館の住居部からなり、洋館部は外観に英国風のハーフティンバー様式を取り入れている。設計は、当時鎮守府施設部長の桜井小太郎で、日本人初めての英国公認建築士である。なお、建物の昇降窓上部や、出窓にある小川三知のステンドグラは、当時のまま保存されている。 ここには、東伏見宮殿下から戸塚道太郎まで 、34代 、31人の鎮守府長官と、デッカー以下9人の米海軍横須賀基地司令長官が住んだ。
東伏見宮依仁親王:慶応3年(1867)~大正11年(1922)
京都出身、皇族。明治10年(1877)、海軍兵学校を中退し、英国に留学、明治20年(1887)、フ ランスに移り、明治23年(1890)、ブレスト海軍兵学校を卒業、横須賀鎮守府司令長官、第2艦隊司令長官を歴任。大正7年(1918)、海軍大将に進級、大正11年(1922)、56歳で薨去、大勲位菊花章頸飾と、元帥の称号を賜った。
戸塚道太郎:明治23年(1890)~昭和41年(1966)
東京都出身、海軍兵学校第38期卒、重巡洋艦「那智」の艦長。昭和16年(1941)、海軍中将に進級し、第11連合航空隊司令官をはじめ、航空分野の要職歴任。終戦時には、横須賀鎮守府司令長官。戦後、海上自衛艦の顧問格となった。
2.16 田戸の赤門
2.7 ベース正面
昭和20年(1945)の終戦まで横須賀鎮守府や海軍工廠の正門があり、その奥の丘に明治17年(1884)12月、東海鎮守府を移した横須賀鎮守府(大正15年建造)や、慶応元年(1865)9月27日に鍬入れ式をあげて建設した横須賀製鉄所の後身である海軍工廠本庁舎などがあった。現在は米海軍第七艦隊極東司令部や、在日米海軍横須賀基地司令部が置かれている。
2.8 海軍機関学校の碑
横須賀学院がある場所に明治34年から海軍機関学校があった。 沿革は明治2年、東京築地に設置された海軍操練所に遡る。大正12年(1923)の関東大震災で全焼し、江田島に移転するまで22年間、1324名の卒業生を送り出した。大正時代、芥川龍之介が英語教官、内田百閒がドイツ語教官を務めていた。
2.9 三笠公園
三笠公園に通じる公園通りは、「海と緑の1万メートルプロムナード」の最初の整備区間で、昭和62年(1987)に完成。又、「水と光と音の公園」をテーマの三笠公園も同年3月に完成、 総面積約3万㎡となり、7色の噴水池は、毎日7回音楽に合わせて噴水のパターンが変わる音楽噴水となっている。
2.10 記念艦三笠
三笠艦は、明治35年(1902)にイギリスで建造された当時世界一級の戦艦。明治38年(1905)、日本海海戦では、東郷平人郎司令長官指揮する連合艦隊の旗艦として、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。世界海戦史上で例を見ない大勝利であった。現在は、世界の三大記念艦(英国ヴィクトリー号、米国コンスティチューション号)の一つとして保存されている。
付記:「皇国興廃在此一戦」石碑
昭和43年(1968)6月1日に除幕された。彫刻家で文化功労者、清水多嘉示(たかし)氏の制作銅像側にある石碑は、元海軍大将、長谷川清書とある。
東郷平人郎:弘化4年(1848)~昭和9年(1934)
鹿児島出身、薩英戦争、成辰戦争に参加後、英国に留学。日本連合艦隊の司令長官でバルチック艦隊を破り、日本に勝利をもたらす。戦後、東宮御学問所総裁に任命される。
長谷川清:明治16年(1883)~昭和45年(1970)
福井出身、明治36年(1903)に海軍兵学校を卒業し戦艦三笠で日本海海戦に参加。昭和9年海軍中将となって第3艦隊司令長官、横須賀鎮守府長官を経て、昭和14年(1939)海軍大将に進級、現役のまま台湾総督に就任。
2.11 共済病院(旧海軍職工共済会医院)
共済病院は、明治39年(1906)、横須賀海軍工廠職工共済会医院として海軍工廠の職工、その家族を対象に開院した。現在の豊島小学校下の所であった。田戸台に移転し、明治42年(1909)、横須賀職工共済会病院と改称し、看護婦養成所を病院内に設置した。大正12年、関東大震災で病院倒壊。翌年、現在の米が浜通り1丁目ヘ移転、新築された。
2.12 中央公園
2.12 中央公園
ここは、元「砲台山」と言われ、陸軍米ケ浜演習砲台があった。米ケ浜砲台は、明治24年(1891)に完成し、28サンチ榴弾砲6門と、24サンチ加農砲2門が備えられ、東京湾要塞砲兵連隊が使用したが、明治以来、一発の実弾を発射することなく、昭和20年、終戦で取払われた。園内には、掩蔽壕の一部が残っている。跡地は、市制60周年記念事業として、中央公園として整備された。
デッカー司令官胸像:ベントン・ウイーバー・デッカー大佐は、昭和21年(1946)に基地司令官として着任、以来4年間、市の経済、教育、文化の復興に功績があった。これを頭彰して、川村吾蔵作の胸像が建立された。
2.13 文化会館(旧横須賀海軍病院跡地)
明治9年(1876)、この丘陵地に建設が始められ、明治13年(1880)から院務を開始した。大正5年(1916)に拡張工事が行われ後は、「東洋一」と言われた。大正12年、大震災で全焼し、楠が浦に移転。跡地に昭和6年に市立横須賀病院が開院したが、昭和37年に焼失。ここに文化会館が昭和40年に開館した。
2.14 聖徳寺
公郷山大多津院と号する浄土宗の寺で、ご本尊は阿弥陀如来立像を祀る。創建は、文和2年 (1353)で、開基は、永島庄太郎正徳と伝えられる。宝暦11年(1761)に現在地へ移り、高徳院の円宿和尚が住職となった。境内には、「庚寅遭難碑」がある。明治23年(1890)10月、鎮守府の練習艦「干珠 (かんじゅ)」の乗組員12名が、ボートに乗り千葉沖で遭難 し、10人が死亡したことを悼んで建立された。2.14 聖徳寺
2.15 田戸台分庁舎(旧横須賀鎮守府長官邸)
建物は、大正2年(1913)竣工の本造平屋建て(一部 2階建て)、 敷地面積 10,248㎡ 、本館延面積 633㎡、洋館の応接部と和館の住居部からなり、洋館部は外観に英国風のハーフティンバー様式を取り入れている。設計は、当時鎮守府施設部長の桜井小太郎で、日本人初めての英国公認建築士である。なお、建物の昇降窓上部や、出窓にある小川三知のステンドグラは、当時のまま保存されている。 ここには、東伏見宮殿下から戸塚道太郎まで 、34代 、31人の鎮守府長官と、デッカー以下9人の米海軍横須賀基地司令長官が住んだ。
東伏見宮依仁親王:慶応3年(1867)~大正11年(1922)
京都出身、皇族。明治10年(1877)、海軍兵学校を中退し、英国に留学、明治20年(1887)、フ ランスに移り、明治23年(1890)、ブレスト海軍兵学校を卒業、横須賀鎮守府司令長官、第2艦隊司令長官を歴任。大正7年(1918)、海軍大将に進級、大正11年(1922)、56歳で薨去、大勲位菊花章頸飾と、元帥の称号を賜った。
戸塚道太郎:明治23年(1890)~昭和41年(1966)
東京都出身、海軍兵学校第38期卒、重巡洋艦「那智」の艦長。昭和16年(1941)、海軍中将に進級し、第11連合航空隊司令官をはじめ、航空分野の要職歴任。終戦時には、横須賀鎮守府司令長官。戦後、海上自衛艦の顧問格となった。
2.16 田戸の赤門
江戸時代の名主・永鳴家の屋敷表門。左右に長い棟を持つ長屋造りで、朱塗りであることから、赤門と呼ばれている。門の脇に、文久2年(1862)の円柱型道標があり、右・大津浦賀道、左・横須 賀金沢道、公郷村之内大田津と刻まれている。島崎藤村の小説、「夜明け前」には、主人公、青山半蔵が、ここを訪れる場面もある。
横須賀市の市民文化資産に指定。
2.17 料亭小松 (平成28年4月、本館焼失)
海軍料亭として知られる米が浜通りの「小松」は、国道16号沿いに建つ瓦屋根の2階建て。昭和9年(1934)に建てられた。 明治18年(1885)、初代女将、山本こまつが38歳のとき、田戸の浦賀道ぞいに創業、大正12年(1923)、現在地に新築移転した。「小松」は、日清、日露戦役における海軍の上級士官を相手に店は繁盛し、東郷平人郎、上村彦之丞、伊東祐亨(すけゆき)、山本五十六、米内光政などが常連であった。 横須賀市の市民文化資産に指定。
2.17 料亭小松 (平成28年4月、本館焼失)
上村彦之丞:嘉永2年(1849)~大正5年(1916)
鹿児島出身、西南戦争や日清戦争に出征し、日露戦争では、バルチック艦隊を追撃したことが日本へ勝利をもたらした。戦後、横須賀鎮守府司令長官。
米内光政:明治13年(1880)~ 昭和23年(1948)
岩手出身、昭和10年に横須賀鎮守府司令長官に就任する。昭和11年に海軍大臣に就任。 昭和15年に首相となるが、わずか6か月で辞任する。
2.18 坂本龍子旧居跡
現在の米が浜通2丁目5番地は、坂本竜馬の妻、お龍 (おりょう)が住み、明治39年(1906)、1月15日、66歳で亡くなった場所。龍馬の死後、回漕業の西村松兵衛と再婚、明治8年入籍、西村つると改名した。 日清戦争あたりから、海軍の増強とともに、坂本龍馬の名がしだいに高くなり、龍子のもとに海軍の高官が訪れるようになる。明治37年、日露戦争の際、葉山御用邸に滞在の昭憲皇太后の夢枕に、龍馬が立つということがあり、皇太后のご意志で、皇后大夫がお龍をお見舞することがあったと伝わる。墓碑は、大津、信楽寺にある。
2.18 坂本龍子旧居跡
現在の米が浜通2丁目5番地は、坂本竜馬の妻、お龍 (おりょう)が住み、明治39年(1906)、1月15日、66歳で亡くなった場所。龍馬の死後、回漕業の西村松兵衛と再婚、明治8年入籍、西村つると改名した。 日清戦争あたりから、海軍の増強とともに、坂本龍馬の名がしだいに高くなり、龍子のもとに海軍の高官が訪れるようになる。明治37年、日露戦争の際、葉山御用邸に滞在の昭憲皇太后の夢枕に、龍馬が立つということがあり、皇太后のご意志で、皇后大夫がお龍をお見舞することがあったと伝わる。墓碑は、大津、信楽寺にある。
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