2017年3月9日木曜日

ガイドツアー「龍馬の妻、おりょうのゆかりの地を巡る」

NPO法人よこすかシティガイド協会主催のガイドツアー、「龍馬の妻、おりょうのゆかりの地を巡る」に参加してきた。
幕末の志士、坂本龍馬の妻、おりょう(楢崎龍)は、寺田屋騒動の折、龍馬の危機を救った女性として広く知られている。おりょうは、横須賀で再婚し、西村ツルの名で人生の後半生、33年間を横須賀で過ごしている。最初の居住地は大津町、二番目は深田台、三番目は上町、四番目は米が浜通(終焉の地)である。おりょうのお墓は、大津町の信楽寺(しんぎょうじ)にある。
おりょうの居住地巡りは、波乱に満ちたおりょうの生涯を振り返る貴重な機会ともなった。今回のガイドツアーでは、おりょうの居住地巡りに加え、他の史跡も何ヶ所か見学できた。
1 実施日:3月9日(木)
2 集合場所:大津おりょうさん公園(京急大津駅)9:30迄
3 コース:大津おりょうさん公園(出発9:30)~信楽寺~大津諏訪神社~おりょう最初の住居地(大津町)~春日神社~一本松・乗合馬車立場跡~浄蓮寺~うらが道(安浦第2公園)~京急県立大学駅~聖徳寺~おりょう二番目の住居地(深田台)~自然人文博物館(昼食11:45~12:20)~道路元標~うらが道・うぐいす坂~三番目の住居地(上町)~横須賀高等女学校跡~龍本寺~お穴さま~四番目の住居地(米が浜通、終焉の地)~京急横須賀中央駅(解散14:00)
行程:約9Km、歩数:約15,000歩
4 史跡見学(説明文:ガイドツアー配布資料参照)
4‐1 大津おりょうさん公園(出発9:30)

4‐2 おりょうの墓がある信楽寺
大津にある浄土宗寺院である。三浦地蔵尊第27番札所である。幕末の志士、坂本龍馬の妻、おりょう(楢崎龍)の墓がある。

龍馬おりょう夫妻木彫り座像
おりょう没後100年を記念して制作された。

 坂本龍馬
天保6年11月15日(1836年1月3日)ー慶応3年11月15日(1867年12月10日)

おりょう(楢崎龍)
天保12年6月6日(1841年7月23日)ー明治39年(1906年)1月15日

おりょうの墓
明治39年(1906年)1月15日、66歳で死去
戒名「照龍院閑月珠光大姉 (しょうりゅういんかんげつじゅこうだいし」

4‐3 諏訪神社
大津の総鎮守で創建は平安初期(824年)。現在の社殿は、大正14年(1925年)に改築された。一村一社の行政指導により、地域の十神が含祀されている。

4‐4 おりょう最初の住居地(大津町5)
横須賀に移り住んだ最初の地は、大津町5(大津公園相撲場付近)である。
明治7年(1874年)、神奈川宿の料亭で仲居をしていた頃、ここに度々遊びにきていた面村松兵衛と意気投合、ここ大津で同棲生活を始める。 数か月で転居したようである。
おりょうの最初の旧居跡説明板

大津公園

大津公園相撲場

4‐5 春日神社
平安時代末、猿島にあった春日大社より分霊した。神輿殿前にある猿の狛犬は、猿島の旧本殿にあったものと言われている。

4‐6 一本松・乗合馬車立場跡(三春町1-29)
うらが道の一本松に、乗合馬車立場跡がある。

4‐7 浄蓮寺
星谷山浄蓮寺、日蓮宗の寺(現在改装中)
応永(1394~1427年)の頃の創建。明治5年、寺子屋だった寺の本堂は、公郷学舎として生まれ変わったが、本堂が狭くなったために、明治10年に浄蓮寺隣りに公郷学校が完成した。

4‐8 うらが道(安浦第2公園)

4‐9 京急県立大学駅前通過

4‐10 聖徳寺
公郷山大多津院と言い、浄土宗のお寺である。創建は文和2年(1353年)で、寺を建てたのは永島庄太郎正徳(楠本正成の四男)。初めは、公郷の曹源寺の地にあったが、戦いによる火災で焼けたため、永島家の屋敷跡に寺地を復興した。元禄14年(1703年)に聖徳寺と改めた。その後も火災に遭い、鎌倉大仏のある高徳院の円宿和尚が住職となり、宝暦11年(1761年)に現在地へ移った。 
おりょうは、この聖徳寺で荼毘にふされている。明治39年(1906年)1月15日没 。喪主は、妹の光枝。遺骨は、恐らく信楽寺と龍馬の墓(京都東山霊山)の横に分骨されたものと思われる。

4‐11 おりょう二番目の居住地(深田台)
明治8年(1875年)7月2日に西村松兵衛と結婚、西村ツルとして入籍した。 おりょう35歳、松兵衛29歳。ここで、約27年ほど暮らしている。

4‐12 自然人文博物館(昼食11:45~12:20)
博物館横の広場で、持参のおにぎりで昼食。好天に恵まれ、心地良いひと時を過ごすことができた。
自然人文博物館
昭和29年(1954年)に久里浜に建設。昭和45年に現在地に新館を建設し自然部門を移転。その後、人文博物館の増設や、歴史民俗部門の移転を経て、総合博物館となる。

隣接の中央公園平和モニュメント

横須賀製鉄所の建設に尽力した人物、小栗上野介忠順像と栗本鋤雲像

自由の女神の像

4‐13 道路元標(上町1-44)
平坂上の派出所前、うらが道が平坂と交差する辺りに「道路元標」と刻まれた石柱が立っている。国道31号(現16号線)の終点であり、県道横須賀三崎線の起点でもある。

4‐14 うらが道・うぐいす坂(上町1-33付近) 
うらが道のうち、この周辺は鬱蒼とした樹木に覆われ、うぐいすの鳴く声が絶え間なく聞こえたことから、この坂は「うぐいす坂」と呼ばれている。この坂上に咸臨丸渡米時の副艦長格であった浜口英幹が幕末から明治にかけて住んでいた。花に包まれた佇まいで花屋敷と呼ばれていた。

4‐15 おりょう三番目の住居地(上町1)
明治35年(1902年)5月30日に、ここに転居し ている。4世帯が住む平家の奥まった二間(2畳と4畳半)の所へ、夫に先立たれた妹の光枝がおりょうを頼って来て、二人で暮らすようになるが・・・。

4‐16 横須賀高等女学校跡(青少年会館横、深田台37)
現在の横須賀大津高校の前身

4‐17 龍本寺
猿海山龍本寺と言い、日蓮宗の寺院で「米が浜のお祖師さま」と呼ばれている。創建は、建長5年(1253年)と伝えられ、鎌倉での布教のため、日運上人が房総から三浦に渡った時、ここに住む石渡左衛門の願いにより、草庵を建てたのが始まりである。

4‐18 お穴さま
龍本寺からお穴さまに通じる急階段

龍本寺の山腹には、三七日 (みなのか→21日間)、日蓮上人が籠って祈念をしたと言われる岩穴があり、「お穴さま」として信仰されている。

4‐19 おりょう四番目の住居地(米が浜通1、終焉の地)
明治38年(1905年)末、米が浜に移転し、病床に伏していた 。明治39年(1906年)1月15日に、妹の光枝や夫の松兵衛に見守られながら、波乱な人生に幕を下ろした。享年66歳。

4‐20 京急横須賀中央駅(解散14:00)
京急横須賀中央駅前Yデッキ

0 件のコメント: