2016年9月26日月曜日

近代日本のルーツ「横須賀製鉄所」

 近代日本のルーツ「横須賀製鉄所」パンフレット参照
横須賀市政策推進部文化振興課発行

現在の米海軍横須賀基地の周辺には、1865年(慶応元年)に建設が開始された横須賀製鉄所(造船所)がありました。日本の近代化は、横須賀製鉄所から始まりました。
横須賀製鉄所は、時代の変化と共に、横須賀造船所、横須賀海軍工廠とその名前を変えますが、横須賀のみならず、近代日本の礎として、我が国の近代化をリードした屈指の工業施設であり、同時に横須賀が都市として発展する出発点ともなりました。

横須賀製鉄所(造船所)の歩み
1 近代日本の夜明け~ペリー来航と小栗上野介~
1853年(嘉永6年)7月8日、開国を求め、ペリーが率いる4隻のアメリカ軍艦が浦賀沖に投錨しました。「太平の眠りをさます 上喜撰(蒸気船) たった四はいで 夜も眠られず」という狂歌に詠まれる程の騒ぎになりました。幕府は、自力で日本を守る必要性を痛感、海軍力の増強や、軍艦を造る近代的造船所の建設を決めました。その計画に当たった人物が、幕府勘定奉行などを歴任した小栗上野介忠順でした。

ペリー提督

小栗上野介胸像(ヴェルニー公園)

小栗上野介忠順の説明板

2 フランスの協力により横須賀製鉄所の建設が決定
当初、小栗らはアメリカに造船所の建設協力を依頼しましたが、アメリカは南北戦争中であり、協力を拒まれました。そんな中、駐日フランス公使ロッシュが、幕府に接近を図ってきました。当時、フランスは、「カイコ」に伝染病が発生し、製糸業が壊滅状態、日本からの製糸と伝染病に強い「カイコ」を必要としていました。早速、小栗とロッシュとの面談が行われ、両国の協力関係が成立、その後すぐに、横須賀が造船所の建設場所に選ばれました。

3 ヴェルニーと横須賀製鉄所のくわ入れ式
造船所の技術的な役割は、フランス人技師ヴェルニーに任されました。幕府は、この造船施設を「鉄を加工する場所」という意味を表す「製鉄所」という名称にして、1865年(慶応元年)11月15日にくわ入れ式(起工式)を行いました。これが横須賀製鉄所の始まりです。

フランソワ・レオンス・ヴェルニー
横須賀製鉄所建設
日本初洋式灯台の観音崎灯台建設
長さの単位として日本で初めて「メートル」を使用

ヴェルニー胸像(ヴェルニー公園)

フランソワ・レオンス・ヴェルニーの説明板

横須賀製鉄所(明治時代初期)

4 ドライドックの誕生(竣工年、造り、長さ×幅×深さm)~日本遺産認定~
第1号ドック
  1871年(明治4年)
  石造
  134.5×29.0× 9.0 
第2号ドック
  1884年(明治17年)
  石造(推定)
  153.0×32.0×11.5
第3号ドック
  1874年(明治7年)
  石造
  94.0×18.0×7.5
第4号ドック
  1905年(明治38年)
  コンクリート及び石造
  239.0×38.0×13.5
第5号ドック
  1916年(大正5年)
  コンクリート及び石造
  322.0×50.0×15.0
第6号ドック
  1940年(昭和15年)
  鉄筋コンクリート(推定)
  337.0×61.5×18.0

第1号~第6号ドライドックの位置
(米海軍横須賀基地内)

明治時代初期のドライドック

現在のドライドック(右から第1、第2、第3号)

第1号ドライドックの内景

第2号、第3号ドライドック棟

第6号ドライドックの内景

5 スチームハンマー~日本遺産認定~
横須賀製鉄所で稼働していた0.5トンと3トンのスチームハンマーが、ヴェルニー記念館に展示されています。

0.5トン片持型(ヴェルニー記念館より)

3トン門型(ヴェルニー記念館より)

現役として鍛造していた頃のスチームハンマー(ヴェルニー記念館より)

6 横須賀製鉄所から日本各地へ伝わった近代化産業
○世界遺産 富岡製糸場(群馬県)の設計
○生野銀山(兵庫県)で使用する機械の製造
○官営愛知紡績所(愛知県)の動力機械を製造
○観音埼灯台(横須賀市)の建設(日本初の洋式灯台)
○野島埼灯台(千葉県)の建設
○品川灯台(東京都)の建設
   現在、博物館明治村(愛知県)に保存

初代観音埼灯台(明治初期)
ヴェルニーが建設にかかわった日本初の洋式灯台

7 横須賀製鉄所のすごい人たち~日本初を成し遂げた2人~
〇川島忠之助(日本初のフランス文学翻訳者)
〇若山鉉吉(日本初の鉄骨造建築)

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